十二月六日(木)壬申(舊十月廿九日) 雨降つたりやんだり

 

今日は雨模樣でしかも寒いやうなので、ダム探訪は延期することにしました。 

それで、いつものやうに讀書三昧と言ひたいところですが、變體假名ですからさうさうはかどりません。それでも、『いろは文庫』 の忠臣藏をなかばまで讀み進みました。やうするに、小山田重兵衛は自刃してしまひまして、そこまでが第一回。豫告として、「かゝる忠義の子と生れし秀左衛門が變心ハいかなるゆゑぞ、そのことは次の條下を讀得てしるべし」とありまして、第二回に入りました。

 

さうしたら、重兵衛さんご期待の小山田秀左衛門、「大星の下知に從ひ、・・同意の諸士へ金子を配當すべく、三百兩を渡された」まではよかつたのですが、もとといふか今は成功して金回りのいい暮らしをしてゐる「鹽谷の浪人」、「実名玉虫辨右衛門」の家に誘ひこまれ、飲み食ひのあげく、あてがはれた女に誘惑されて、といふいいところまで讀んでゐたら、一昨日注文した 『真澄研究 十三号』 が届きまして、錦先生の講演記録を讀みはじめたらとまらなくなつてしまひました。

 

錦仁先生の講演記録の題名は、「ほんとうの眞澄へ─藩主と歌枕と地誌─」 といふもので、ぼくの疑問に應へてくれた内容だつたからです。 

十一月二十七日の日記で、ぼくは、東洋文庫の 『菅江眞澄遊覧記』 には眞澄の和歌の大部分が省略されてゐるといふことを書きました。それは、變體假名の原文 『伊那の中路』 を讀んでゐて氣がついたことでした。 

さうしたら、錦先生、「内田武志・宮本常一編訳 『菅江眞澄遊覧記』(東洋文庫) は、眞澄の旅日記・日誌・随筆の類から、和歌に関する記事および眞澄の詠歌を抜き去って現代語訳してしまった。これがいかに眞澄の本質を理解しないものであるか、批判・検討されるべきである。」と書いてをられるのであります。そんなことをある學會で話したら、「ある大学の先生に 『十五年前だったら殺されたぞ』 と言はれたといふことまで語つてゐます。

 

さうだつたのです。菅江眞澄は、なまじひに柳田國男に見いだされて有名になつたのはいいけれども、その親分の言ひやうに抑へ込まれて、菅江眞澄の本質への接近を閉ざしてゐたといふことを錦先生はおつしやつてゐるのであります。 

眞澄は、「和歌を詠みながら各地を旅し、観察し、書き記した」のであつて、柳田國男が言ふやうに、農民側に立つて生活を記録した民俗學の祖であるといふ見方は見直さなければならないのです。 

なぜさう言へるのか、和歌について、そして歌枕・名所について、秋田藩主が眞澄に依賴した仕事についてが本講演のテーマですが、ぼくの頭腦に収まりきれないので省きます。 

いや、これだけは記しておきませう。

 

「和歌は神世のむかしから綿々と存続しており、日本に隅々に浸透している。・・・いいかえれば、和歌のあるところすなわち日本、というわけです。これが、平安時代から江戸時代へと続いてきた和歌の思想というものです。日本の歴史は和歌と重なるのであって、表裏一体の関係にあります。・・・都から遠く離れたところに歌枕があるなら、そこは紛れもなく神世からの歴史を誇る日本の内部である。歌枕の存在はそのことを証明する、と。各藩が歌枕の誘致合戦、遺跡造りに熱心に取り組んだのはそのためです。文芸の背後に治世の思想が潜んでいるのです。 

・・・和歌および藩主の文化意思という観点から眞澄を読み直すと、また別の新しい世界が見えてきます」。

 

 今日の寫眞・・・晩年の菅江眞澄と今日のココ