十二月廿六日(水)舊十一月廿日(壬辰) 晴のち曇り

 

今日も 『保元記 上』 を讀み進みました。今日は趣向をかへまして、文庫本と比べたりせずに、直接本文を讀むことに心がけました。そして、難しい漢字に出會つたら、古文書解讀の要領で、児玉幸多先生編の、『くずし字解読辞典』(近藤出版社) と 『くずし字用例辞典』(東京堂出版) を驅使して讀み解く努力をしてみました。

 

だいたいの漢字には振り假名が振つてあるので安心して讀んでゐたのですが、途中から振られてゐない漢字が現れはじめたので、文庫本を見たい誘惑に抗して辭書を引き引き讀み進みました。 

ところが、登場人物や地名などは讀めるのですが、「彼の」とか、「然るを」、「尤も」、「勝たり」とか、けつこうよく出てくる漢字が讀めなかつたりします。當然速度はおちますが、いい勉強になります。 

 

さう、足利氏の祖といはれる、源義康の名が現れました。その初登場場面です・・・。 

「内裏より右大將公憲卿、藤の宰相光賴二人を御使として美福門院へまいらせられて、故院(鳥羽院)の御遺誡を申出さる、兩人是を披見し奉は、内裏(後白河天皇)と院(崇徳上皇)と御中あしかるへき事を故院兼て御心得て内裏へ參へき武者の假名(けみやう)を御自筆に知しをかせ給ふ。義朝、義康、頼政、實俊已上四人也」

 

つまり、後白河天皇側が、味方となる武士がだれであるかを確かめるために、故鳥羽院の皇后・美福門院(得子)に問ひ合はせたところ、鳥羽院は、生前すでに後白河と崇徳が爭ふであらうことを心得てゐて、味方となる武士を集めて署名させてゐたといふことが判明する場面です。そこに、源三位賴政より先に源義康が名を連ねてゐるのですから、鳥羽院にだいぶ期待されてゐた戰力だつたことがわかります。 

この義康は、八幡太郎義家の三男・義國(新田・足利両氏の祖にあたる)の子で、賴朝擧兵に付き從つた義兼の父親です。でも、足利尊氏登場まではまだ六、七代待たなければなりません。 

 

今日はわが自家用輕自動車の定期點檢があり、届けたあと夕方まで代車を使ひました。が、それが新車なのでせうか、カーナビもつき、椅子が温かくなるやうな仕掛けもあつて、新車を買ひなさいと言はんばかりのサービスです。でもただ一つ、ノラネコを捕へたケージが三、四かごしか入らないのが難點でした。

 

今日の寫眞・・・先日の東京散歩で見たモノ!