十二月卅日(日)舊十一月廿四日(丙申) 

 

今日は、夕食に大好物の酢だこと松前漬けが出たので、そろそろ正月だなあと思つただけで、いつもとかはらぬ讀書の旅に出ました。 

それで一氣に 『河内本源氏物語成立年譜攷─源光行一統年譜を中心に─』 を讀みあげました。ちやうど、堀田善衛の 『定家明月記私抄』 を讀んでゐるやうな氣分になりました。人物の足跡を追ひながら、激動する社會を上手に描きだしてゐるところなど、わくわくしながら讀み進みました。

 

とくに、光行一族が、『平家物語』 の成立に深く關はつてゐたといふことをはじめて知りましたが、さもありなんと思ひました。「つまり光行は、源平双方の側から合戦抗争をつぶさに聞くことを得た立場にあった」のであります。 

父の光季が、後白河上皇女御平滋子に從ふ武士であつたことはすでに書きましたが、叔父の季貞と兄の則淸が、「平氏一門と運命を共にし、壇ノ浦の合戦で生虜に」なり、さらに、光行の娘が「建礼門院女御」でありましたし、光行自身、鎌倉にゐて、「関東武士、すなはち源氏の側から、合戦の樣子を知る機会は十分にあった」こと、また、「『徒然草』 が伝へる 『平家物語』 作者、信濃前司行長に擬せられる下野前司行長が」、間接的にであるにせよ、光行と關りがあつたことなどを考へると、光行一族が、『平家物語』 の成立に深く關はつてゐたことは間違ひないと思ひました。『源氏物語』 からはちよいと寄り道になりますけれど、ぼくには大變興味深いことでした。 

 

さて、肝心の 『源氏物語』 ですけれど、實は、『河内本源氏物語』 がどのやうに成立したか、よくわかりませんでした。 

むろんわかつたこともありました。例へば、源光行が 『源氏物語』 を研究對象として捕へやうとしたのが、世情が安定した「文治末年から建久初年ごろ」、つまり、光行が二十九歳になる前あたりからといふこと。息子の親行が長じて本格化したのが、光行四十歳前後の正治、建仁年間で、鎌倉に本拠を置いてゐた時期といふこと。 

そして、本書の記述によりますけれど、その校訂作業が次のやうに描かれて、といふかはじまります。

 

「貞應二年(一二二三年)六月十四日 河内本(平瀬本原本)『源氏物語』の「横笛」卷、書写校合される」

 

現存奥書群の中で、もっとも古い年記を持つてゐるのが、この「横笛」ださうですから、まさに校合作業はこの卷から開始されたのであり、しかも、どのやうなわけか知りたいところですが、「桐壺」の最初から順にといふわけではなささうなのであります。

 

「寛元元年(一二四三年)十一月二十六日 河内本(中山家本の原本) 『源氏物語』「絵合」卷、書写校合される。同三十日、再び三本をもって校合終わる」

 

このやうに、本書を見ると、「親行が本格的に校訂作業に取り組み出す」のが嘉禎二年(一二三六年)、仕上がつたのが建長七年(一二五五年)であり、『源氏物語』 の本文研究への意識が高まりつつあつた時期とはいつても時間がかかつたのだなあと思はせられます。 

そもそも、光行・親行のもとにどれだけの寫本があつたのでせうか。以下、參考書をまる寫ししておきます。

 

『河内本源氏物語』 は、源光行とその子源親行が協力して、当時乱れに乱れていた 『源氏物語』 の本文を正すために作られた。その当時伝来していた21部の『源氏物語』の古写本を集め、「数度の校合」と「重校」によって「殆散千万端之蒙(疑問を解消することが出来た)」という。 

集められた古写本の中で、源光行がもともと持っていた写本と以下の7つの写本を特に重要視していたとされる。 

〇二条帥伊房本〇冷泉中納言朝隆本〇堀川左大臣俊房本〇従一位麗子本〇法性寺関白本〇五条三位俊成本〇京極中納言定家本 

これら以外にも、平瀬本奥書などによって香本・花本・俊本・武衛本・江本・山本・馬本といった写本を参照していたことはわかるものの、これらの写本がどのような由来を持ちどのような本文を有する写本であったのかはほとんど不明である。」

 

このやうに、校訂・校合はされていつたといふのですが、實は、ぼくはそれがどのやうな具體的作業なのかまつたくわかりません。だから、ただ比較檢討してわかりやすく、かつ前後の整合性を加味して書き直していつたのかなあと推測するしかありません。が、いづれにせよ、定家の靑表紙本に對抗するかのやうな河内本が成立したのでありました。 

 

その間、興味深いのは、藤原定家が九條兼實宅に招かれて 『源氏物語』 について語りあつたり、後鳥羽上皇が定家、有家に 『源氏物語』 などの和歌を撰び記したものを獻上させたり、『源氏物語』 にたいする關心が高かつたことをうかがはせられる記事が頻出。 

それと、定家が三十年ものあひだ 『源氏物語』 を持つてゐなかつたことは初めて知りました。が、いはゆる靑表紙本が完成したのが、嘉禄元年(一二二五年)二月十六日であり、光行がはじめて書寫校合作業を開始した、貞應二年(一二二三年)六月十四日とそれほどへだたりがないのですね。その間、定家は必要に應じて、その都度借覽してゐたことなどがわかりました。 

その靑表紙本も、「昨年十一月より家の小女らに写させていた」もので、定家が表紙をつけ、外題を書き終へて仕上げたものだといふのです。それがただちに「権威あるものに扱われ」たとありますが、それがどのやうな校合を經たものかは記されてゐません。

 

忘れてはならないのは、光行はじめ、息子の親行と孝行、それに孫の善行と曾孫の知行までもが、みな勅撰和歌集にその歌が入集してゐることです。「『千載和歌集』 に光行の歌が入って以來、『新続古今和歌集』 までの十五代の集に光行一統の歌の見えないことはない」と言はれ、『新千載和歌集』 には、「光行以下四世六人も揃って入集したのは空前絶後である」と、著者も手放しで稱讃してをります。 

 

最後に、『吾妻鏡』 によれば、嘉禎三年(一二三七年)三月九日、親行も列席した將軍主催の和歌會に、足利泰氏が同座してゐます。初代足利義康―義兼―義氏―泰氏とつらなり、尊氏まではまだ數代ありますけれど、鎌倉の重臣のなかに足利泰氏がゐたといふことが確認できて有益でした。 

「飛鳥井雅有が、嵯峨にある爲家の小倉山莊で、爲家と、その妻(阿仏尼)から 『源氏物語』 の講義を受け」た(『嵯峨のかよひ路』)等の逸話も多く、保元・平治以後、南北朝時代にかけての歴史を俯瞰できたやうで、とても勉強になつた一册です。 

 

新年を迎へるにあたり、『尾州家河内本 源氏物語』 はもちろんですが、「メメント・モリ」でありますから、『一休骸骨』 と 『貧人太平記』 を讀もうかと思つてゐます。