五月十二日(土)甲辰(舊三月廿七日) 曇り

 

どうも調子がよくありません。まあ、調子のいいときのはうが少ないですから、よくないなりに過ごすしかないわけでありまして、それには讀書がいちばん。 

それで、今日も、山本淳子先生の 『枕草子のたくらみ』 を讀み進みました。と言つても、くづし字原文と交互に讀んでいきますから、それこそ計がいきませんが、内容を理解するには十分すぎるくらゐ、味はつて讀むことができます。 

 

「第一章 春はあけぼの」、「第二章 新風・定子との出会い」につづいて、「第三章 笛は」を讀みました。 

本文は、第二〇五段(能因本では二〇二段)の「笛は、横笛」と、第二七三段(能二七〇段)の「日のうらうらとある昼つ方」、第二七三段(能一九八段)の「遊びは、夜」、それと、第三一段(能三九段)の「説経の講師は、顔よき」でした。 

著者は、この章をしめくくるにあたつて次のやうに書いてゐます。 

 

「『枕草子』が集中的に書かれたのは、道隆が世を去り伊周が流罪となり、(中宮定子のサロンの)文化の基盤たる中關白家が凋落した時であった。定子の文化は今や崩壊の危機にあった。淸少納言には、軽佻浮薄さも含めてその文化の一つ一つが、むしろ切なくいとおしく、貴重に思えていたに違いない。喪われゆくものであるならば、今こそ胸を張って、自由闊達な定子文化サロンを書いて遺さなくては。淸少納言が 『枕草子』 に自分たちの生活文化を記したということには、そうした意味があったのだ」

 

同感ですね。二月二十二日に讀んだ、冲方丁著 『はなとゆめ』 の感想でのべましたやうに、「抹殺されたはづの定子さんの姿と淸少納言が、その美しく輝く姿が、いつまでも後世に記憶された」『枕草子』を通して、その眞實に觸れてみたい氣持ちはますますたかまりました。 

ですからでせう、山本淳子先生、橋本治さんの 『桃尻語訳枕草子』 を、淸少納言の「作品用の顔」をもつて、淸少納言の素顔(ほんとうに書きたいこと)をも、ミーハーの一本調子で茶化してしまふのはどうであらうかとご批判なさつてをります。 

 

それと、明日は五月十三日、ぼくたちの結婚記念日です。われながら驚いてしまひますが、四十五年ですよ! 妻の努力とぼくの忍耐で積み重ねられた日々でありました。まあ、なにも祝ふほどのことはありません。