七月廿二日(日)乙卯(舊六月十日) 晴、蒸し暑い

 

ビールが美味い。この數日、夕食にビールを飲んでゐますが、美味しくいただいてゐます。と言つても母と分け合つて飲むコップ一杯程度の量ですが、それがおいしく飲めるのは、毎日暑いからか、體調もいいからなのか、とにかく美味しく飲み食ひできるといふことは生きてゐるあかしでありませう。 

 

さて、今日から、『源氏物語』 〈四・夕顔〉を讀みはじめました。靑表紙本」で一三一頁あります。〈帚木〉がほぼ同じ分量の一三二頁、〈空蝉〉はたつた二六頁でした。くづし字にもなれてきましたから、早く讀めるやうに努力してみませう。 

 

ところで、いまさらのことですが、句讀點もない、濁點もない、段落もない、無い無いしのくづし字の文章を讀んでゐるといろいろ氣づくことがあります。そのひとつは、句讀點のつけ方です。 

句點は、「文の切れ目に打つ記号」で、打ち所は比較的わかりやすくて、ほとんどはづれたことはありません。だからと言つて文章の意味がわかつたといふことではありませんが。 

意味がわかるために必要なのは、讀點の打ち方です。讀點は、「一つの文の内部で、語句の断続を明らかにするために、切れ目に施す点」であるとされてゐますが、これがむずかしい。なぜむずかしいかと言へば、讀點がつけられることによつて、一つの文章の意味が理解できたと言つてもいいかも知れないのですが、その「語句の断続」と「切れ目」がわかりにくいのです。讀點がつけられないといふことは、文書の意味がわかつてゐないことにもなります。 

それでも、濁點がついてゐたり、さらに漢字が使はれてゐたならば單語は一目瞭然、「語句の断続」と「切れ目」も一層明らかになるのですが、單語がわからないとくればお手上げです。ただただ讀みながら單語を覺えていくしかないのでありませう。 

 

夕顔といへば、『無名草子』 には、「ゆふかほはひとす地にあはれさに心くるしきまきにて侍めり」 とありました。よほどいたはしく、氣の毒な女性のやうでありますね。