八月(葉月)一日(水)乙丑(舊六月廿日) 晴、猛暑

 

今日は出かけてきました。母がデイサービスでしたので、妻の買ひ物につきあつて出かけたのはいいのですが、なんともなさけない外出でした。 

場所は、東京スカイツリー。京成で押上驛下車、その眞上がスカイツリーとソラマチであります。で、晝食はいつもの天龍で餃子をいただいたのですが、それが、二人で一皿が精いつぱい。しかも食べた後、ぼくはなんとなく具合がわるくなり、東武の業平橋驛(とうきょうスカイツリー驛)から歸つてきてしまひました。でも、妻は、さらに見たいところがあるといふので別行動。るんるんの樣子で別れていきました。

 

ぼくだつて、ほんとうならば行きたいところがあつたのです。半藏門線で九段下驛まで行き、そこからは歩きで、まづは、塙保己一の創立した學問所である、和學講談所跡。つづいて、『群書類從』 の完成を祈願して日參した平河天滿宮、そして、塙保己一の墓のある、四谷の愛染院。この三か所を訪ねる計畫だつたのですが、炎暑の中、歩ける状態ではないと思つて斷念したのでした。しかも、歸宅してからは寢込んでしまひました。まあ、悔しいくらゐやはになつてしまひました。

 

 和學講談所跡・・・塙保己一の創立した学問所。寛政5 (1793) 年江戸幕府の許可と下付金を受けて江戸麹町(現在の千代田区三番町24)に設立、のち表六番町に移した。林大学頭の支配を受け、国史、律令の講習および史料の編纂をおもな事業とし、屋代弘賢らを中心に 『群書類従』 『続群書類従』 『武家名目抄』 などを編纂した。事業は保己一の子忠宝が引き継いだが、幕末に尊攘派(長州藩・伊藤博文他)によって暗殺され、編纂は停止された。 

 

平河天満宮・・・文明10625日、太田道灌により創建された神社。たびたび火災に見舞われながらも、銅鳥居や石牛・狛犬など多くの文化財を今に残している。 

蘭学者・高野長英の大観堂学塾は平河天満宮のすぐ裏手にあったので、高野長英はよく参拝に訪れた。また、江戸時代の盲目の国学者、塙保己一も平河天満宮の熱心な信者で、平河天満宮に祈願しながら 『群書類従』 を完成させた。塙保己一の住まいの和学講習所は、現在の千代田区三番町24にあった。 

 

愛染院  塙保己一の墓 文政2年(1819)群書類従を寛政させ、同4年(1821)には総検校となったが、同年9月 「続群書類従」 の編纂なかばで没した。享年76歳であった。 

墓所は、最初近くの安楽寺に造られたが明治31年(1898)廃寺となり、愛染院に改葬された。墓石は高さ103センチである。