八月十三日(月)丁丑(舊七月三日) 曇天、午後激しい雷雨

 

靑表紙本で讀む 『源氏物語』 〈夕顔〉が讀了。先月の二十一日から、二十四日かかつて讀み通しました。平均して、一日に五頁半の速度でした。 

〈夕顔〉の内容は、著者が「草子地」で苦言を呈さざるを得ないやうな光源氏の行状でありましたが、反省はしたのでありませう、

 

「なほ、かく人に知れぬことは苦しかりけりと、思し知りぬらむかし」(やはり、かういふ人目を忍ぶ戀は苦しいものだつたのだと、身にしみておわかりになつたことだらう)

 

このやうに物語は締めくくられてをります。『日本古典文學全集』(小學館)の頭註には、

 

「夕顔は死に、空蝉も京を去った。粛々とした初冬の時雨空のもと、源氏の狂おしい情熱は静まり、ほろ苦く、甘い感傷の中に、静かな冬籠りの季節に入る。空蝉への手厚い餞別と小袿の返却は、『中の品』の女との交渉が、ここにすべて終わったことを告げる」

 

と、まあ、これで帚木・空蝉・夕顔とつづく 「玉蔓系」 のうちの、「空蝉物語」と「夕顔物語」が終はつたことになります。ただ、空蝉については〈関屋〉の卷が、〈夕顔〉については、その子、玉鬘が物語を引き繼いでいきますが、それは乞ふご期待といふしかありませんね。 

それで、つづいて、「玉蔓系」 の三つ目の「末摘花物語」の〈末摘花〉を讀みたいと思ひます。これを讀むと、つづきの〈蓬生〉までは、「紫上系」 にもどることができます。 

 

讀んでゐて感じることは、『源氏物語』 は、その原文を讀まないと、その味はいが薄れるといふか、ぜんぜん讀んだことにはならないとさへ思ひます。現代語譯ならいいでせうが、ダイジェストとかあらましを讀んだだけでは源氏を讀んだとは言へない氣がします。 

格言に、「たらいの水と一緒に赤子を流す」といふのがありますが、『源氏物語』 を讀むのと通じるものがあります。水を流して赤子だけ救ひとろうとしても、さうは問屋が卸さないのであります。その眞僞は讀んでみてのお樂しみ。 

 

また今日は、先日から讀んできた、短編集の、森詠著 『冬の別離(わかれ)(講談社文庫) も讀み終へました。 

「定年直前の老刑事は、他の刑事たちが犯人の現在の愛人宅を張り込んだのに対し、犯人に棄てられた昔の恋人宅を張り込んだ。男を待ち続ける女の部屋からは、美しいピアノ曲 『冬の音楽』 のメロディが流れ続けていた。はたして犯人はどちらの女のもとへやってくるのか? 若者たちの心の傷を鮮烈に描く作品集」 

とあるやうに、表題作(『冬の音楽』)以外は、ぼくの學生時代を思ひ出させるやうなせつない戀物語ばかりでした。