八月十四日(火)戊寅(舊七月四日) 

 

今日は曇り空で氣温も少しは落ち着くといふので出かけました。が、だまされました。かんかん照りで蒸し暑く、體中の汗が流れ出てしまひました。目的は、先日斷念した、塙保己一が創設した和學講談所跡を訪ね、そのお墓に詣でることです。ただ、『群書類從』 の完成を祈願して保己一が日參した平河天滿宮は今回は省きました。

 

はじめ、半藏門線の九段下驛から歩かうかと思ひましたが、それでは坂を上ることになるので、半藏門驛まで行きました。とそこで、今日は十四日、明日は十五日で敗戰記念日であることに氣がつき、急遽、千鳥ケヶ淵戰没者墓苑に詣でることにしました。 

地上に出ると、そこは一番町の交差點。右に曲がつて直進すると墓苑入口の交差點に出ますから、ほんの數分で到着しました。墓苑は木々に圍まれた一角にあり、實は中に入つたのは今日がはじめてでありました。何度か訪ねたのですが、そのたびに門が閉じられてゐて入れなかつたからです。 

明日、〈戦争犠牲者追悼・平和を誓う8・15集会〉が行はれるのでその準備が進められてゐました。働く人たちの邪魔にならないやうに、「陶棺」がおさめられた建物の前に立つて手を合はせました。思ふことも言ひたいこともたくさん、心からあふれんばかりにありますが、ぐつとこらえて、行先を間違へた列車に乘つてゐるやうな氣分のまま、これからも生きて行かなければならないと思ふと、切なくなりました。 

 

三番町までは、日陰をたどらないと我慢できないくらゐの日差しになりました。番町學園通りといふのか、二七通りといふのか、甲子園で戰つてゐる二松學舎を應援する幟がはたはたしてゐる通りを四谷驛方向に向ひました。めざす住所を確認しいしい、一軒一軒その周邊にも目をこらして歩きましたが、肝心の 和學講談所跡 を示す標柱も説明版も見當たりません。二往復半、行きつ戻りつしましたが、たうとう發見できませんでした。 

いくら歴史を重んじない行政府といつたつて、我が國の歴史と文化のために、國寶以上の價値と意義がある働きをしたその場所を示す印となるものくらゐ設置したつていいと思ひますけどねえ。なんともがつかりしました。

 

で、氣をとりなほせないままに四谷に向ひ、新宿通りに出ると、ちやうどお晝時となり、お盆休みがとれない勞働者の方々があふれ出てくる歩道を三丁目方向にたどりつつ、東福院坂といふ急坂の途中にある愛染院を探し出しました。木陰のない墓地で、探すまで暑くてかなひませんでしたが、立派な墓石を見つけたときはほつとしまして、手をあはせたまま倒れさうになりました。 

 

あとは歸るだけでしたが、せつかくですから神保町に行きました。けれども、どこもかしこもお盆休み。東京堂の國文學・影印書のコーナーを訪ね、三省堂の隣りのビル五階のかんたんむのぞいただけで歸ることにしました。 

収穫は、東京堂では、小松英雄先生の新刊 『土左日記を読みなおす』(笠間書院) を、かんかんむでは、『明治維新という幻想 暴虐の限りを尽くした新政府軍の実像』(洋泉社・歴史新書) といふきはめて納得できる表題の新書本(三五〇圓)を買ひました。 

今日歩いた歩數は一二九〇〇歩でした。たしかに歩き疲れました。 

 

註・・・塙保己一の墓 『群書類従』は、国史、国文の最大の資料である。正編五百三十巻、六百六十六冊。他に目録一冊。続編千百五十巻、千百八十五冊という大叢書は、四十年間に及ぶ努力と苦心の結実であった。 

七歳で失明、十五歳で江戸に出て、盲人の修行として琴や三味線を習ったが、不器用でおまけに勘が悪く、どうしても上達しなかった。将来に不安を抱いた彼は、自殺を図るまでに追い詰められたのだった。しかし保己一には、異常と言えるほどの記憶力があり、理解力と判断力にも優れていた。彼の師は賀茂真淵らに学ぶようにとりはからったという。按摩の治療代として秘書を読んでもらうほど、学問に没頭した保己一であった。 

『群書類従』の他にも、水戸藩の『大日本史』の校正や、公式の和学講談所の設立、『武家名目抄』の著作など、広く活躍した。その思いを 「身にあまるめぐみある世は/よむ文のすくなきのみぞ/なげきなりける」 と詠じている。 

いまや知る人ぞ知るといった感のある保己一の墓。右奥に小さな五輪塔、中央に本人の墓が建立されている。墓石は高さ103センチ、先祖よりも立派な墓だ。 

 

今日の寫眞・・・千鳥ケヶ淵戰没者墓苑にて、和學講談所があつたあたり、それと塙保己一の墓