十月九日(火)甲戌(舊九月朔日・朔) 曇りのち晴

 

『源氏物語』 の〈須磨〉の卷、今日も讀みつづけましたが、「靑表紙本」の四六頁に至つて、紫上の深いお嘆きをあとにやつと旅立ちました。その間何人の人たちと別れを惜しんだのでありませうか、おおまかなところをあげてみたいと思ひます。 

まづ、六頁のところで、歴史上の人物である源高明が、三月二十六日に左遷されたことを念頭に、源氏は、 

「三月の二十幾日に京を立つことにしたのである。世間へは何とも發表せずに、極めて親密に思つてゐる家司七八人だけを供にして、簡單な人數で出掛けることにしてゐた。戀人たちの所へは手紙だけを送つて、密かに別れを告げた。形式的な物でなくて、眞情の籠つたもので、いつまでも自分を忘れさすまいとした手紙を書いたのであつた」 

と、これだけですでに別れのあいさつは濟んだものと思つてゐると、これから個々の別れが延々とつづくのであります。

 

そのはじめが、「出發前二三日のこと」、前年左大臣をした大殿(おほいのとの)、亡き葵上の父親の邸に參上。そこでは、「祖父と父の間を歩いて、二人に甘えることを樂しんでゐる若君(夕霧)」にも會ふことができ、また、葵上の兄でもある三位の中將(頭中將)とも會つて別れの杯をかはしてゐます。さらに、「源氏の隠れた戀人である中納言の君」とも會ひましたが、「皆が寢た後に源氏は中納言を慰めてやらうとした。源氏の泊まつた理由はそこにあつたのである」、といふのには、ちよいと驚きました。この期に及んでですが、當然「實事」が行はれたことは申すまでもないでありませう。

 

翌朝、中納言の君との別れを惜しんでゐるところに、「大臣夫人の宮(葵上の母)の御挨拶を傳」へに、「若君の乳母の宰相の君が使になつて」來たので、しみじみと別れをかはしましたが、紫上のゐます肝心の二條院へはこれからです。それが後朝(きぬぎぬ)の朝だといふのはどうもしつくりいたしません。いや、後朝といふのではなく、單なる男女の別れの挨拶だつたのでせう、きつと。

 

二條院では、紫上と親密に語り明かし(このときも「實事」ありでせう!)、翌日には、帥宮(源氏の腹違ひの弟、螢兵部卿宮)と三位中將もやつてきました。 

その上、旅の準備もあり、忙しいとは思ふのですけれど、先日うかがつたばかりの花散里を訪ねて、麗景殿の女御とお會ひし、さらに三の君との情交(實事)とつづき、夜明けの薄暗いころにお發ちなるといふ、まことにまめな精力絶倫の源氏の君であります。 

もういいかげんにしろ、と言ひたくなりますけれど、大事な退去の準備として、家具や領地などの財産の管理の始末、それと花散里の暮らしむきのことを心配りなどして、萬端に遺漏なき人柄であることを見せつけてゐます。 

これでよしよしと思ひきや、なんと、不義發覺の發端となつた朧月夜に忍んで「消息」をかはしてゐるんです。「實事」こそなかつたにしても、未練たらたら、できればまた會はうね、なんて、今言ふべき言葉ではないでせうに、もう付き合ひきれませんです。

 

とは言へ、次いで、出家してしまつた藤壺にもお會ひし、故桐壷院の御陵に參で、最後の最後に、宮中にゐる藤壺との間に生まれた東宮(後の冷泉帝)に別れの便りを送り、その取次ぎをした王命婦との心のこもつた會話が胸を打ちます。王命婦は、源氏と藤壺の密會のなかだちをして、すべてを知つてゐるのですから、それなりに源氏につたへたいことも多かつたことでせう。 

で、いよいよ出發の朝です。紫上とはゆつくりとお話しをかはされて、もう涙は見せてゐないやうです。(以上、引用は、與謝野晶子譯です)