十月十四日(日)己卯(舊九月六日) 曇天、時々日差しと小雨

 

今日も、ひざにモモタ、胸にはココを抱いて讀書の旅。飯嶋和一さんの 『始祖鳥記』、第一部はあつけなく終はつてしまひました。けれども、結末がどうのこうのといふ小説ではありませんので、讀んで滿足したといふ思ひに滿たされればそれでいいのだと思ひます。 

第二部は江戸の鹽の賣買に關するはなしです。ぼくは經濟小説は苦手ですが、無爲無策な幕僚と巨大商人(豪商)が結託して私腹を肥やすことしか考へてゐない状況下、困窮した人々を救ふべく知力をつくして努力する商人のはなしは、豪小説とはまた一味ちがつた血湧き肉躍る思ひがいたします。

 

鹽といへば、江戸からの鹽の販路の終着地として、鹽尻の地名が出てきました。中仙道にも、北國街道にも見られましたが、この第二部で、行德から利根川上流部へと、さらには鬼怒川づたひに日光、會津まで運ばれたゐたことがわかり勉強になりました。

 

ところで、世の中を救ふにはどうしたらよいか、血の出るやうな努力をしてその解決に奔走する人物が現れる一方、ぼくなりの結論を先取りして言ひますと、權力者と豪商、それとそれらの手先となつて動き回る役人たちが、せめて、解決する努力をしてゐる人びとの邪魔をしたり、捕へたり、罰したりしないでもらひたいと思はざるを得ません。皮肉な言ひ方ですが、權力者と豪商らがいかに惡であり罪深い存在であるかといふことがよくわかるでせう。 

第一部では、空を飛ばうとして創意工夫を重ねて努力する者を、お上はただ見つけ出して罰することに走り回るだけでした。先日讀み終へた 『オランダ正月』 でも思ひました。その良し悪しを自ら考へて判斷するでもなく、阻止したり、捕まへて罰するだけ。我が國益となる必要な人材を殺しまくつて、いつたいどのやうな國づくりをめざしてゐるのでせうかね。まつたく反省のない國だなあと思はざるを得ません。 

 

幕府と豪商たちが結託して私腹を肥やすことしか考へてゐないといふ例を見てみませう。 

先日讀んだ 『素龍淸書本 おくのほそ道』 の旅のところで、酒田の「いな船」の話が出てきました。それにあはせるやうに、ブラタモリの番組で、酒田の米藏を紹介してゐたのでした。そのとき、「酒田は最上川流域の米を集め、西回り航路を通じて一大消費地・江戸に送り込む重要な場所だったんです」と讃の聲があがりましたが、このことを踏まへて次の飯嶋さんの文章を熟讀してみませう。ぼくたちがどんな視點で歴史と立ち向かつたらいいかを敎へてくれるはづです。 

 

「百年前、寛文年間に河村瑞賢によって開かれた東廻りと西廻りの航路が公儀幕府より定められて以来、すべての中心である江戸で商いをするためには品川の船番所ですべての荷揚げ、米始め主要な品は決められた問屋にしか売り払うことが出来ない仕組みが出来上がっている。買積船と呼ばれ、自分の金で品物を買い込み、自前の船で各地に運びこみ、思うがままの商いをしているように言われながら、結局は公儀の認めた商いのみに縛られ、それ以外の身動きはとれない仕組みになっている」

 

「二年前の大飢饉によって百万とも呼ばれる死者を出したのは、すべて糞侍ども(公儀幕府)の暮らしをまもるための馬鹿げた仕組みによるものであることは、廻船業に携わる者なら誰でも知っている。三人に一人が餓死したという津軽藩が、四十万俵を超える米を大阪や江戸に廻送していたことを、現に源太郎はその目で見ていた。あの秋、秋田の湊や庄内酒田から西廻りで大阪に入ってきた廻船米は、目一杯積み込んだその荷によって船縁の船足制限まで喫水線を押し下げていた。・・・源太郎は吐き気を催した。あの苫囲いのしたに積まれていたものは、廻米の俵などではない。かの地で飢えのために果てた幾十万の躯(むくろ)が山積みになっているものとしか映らなかった」 

 

これは、昔話ではないやうに思ひます。 そして、ここで得た感動が、いま生きる生き方や考へ方になんにも影響をおよぼさないとしたら、それは何も讀んではいないし、歴史に何も學んでゐないと同じことでせう。 

 

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