八月(葉月)一日(木)舊七月朔日(庚午・朔 晴、猛暑 

今日から八月。七月は子猫に振り回されましたが、一段落しましたので、今月は木工を開始しようかと思ひます。 

生卵かけごはんの朝食後、まづは、臺所わき納戸の押し入れから、保管しておいた木工の材料や金具、包装紙等を出して、工房と定めた書庫に運びました。 

お詫びをかねて、またお世話になつてゐる方々に作品をさしあげようと、たしかに決心しました。かう言つてはなんですが、今までも自分に課題といふか債務を課すことがぼくの原動力であつたやうな氣がします。決してみなさんをダシに使つたわけではありませんので、ご了解のほどを。 

それにしても、作りかけの作品がたくさんあつたのには、びつくりしました。特に箸の材料のいぶし竹の容器を開けたら、中からなつかしいいぶした竹の焦げたやうな煙のにほひがただよひ出て、こころは毛倉野にもどつてしまひさうになりました。が、現實は中村莊の書庫の中、窓を開けておいても汗がふき出してきて、作業を中斷せざるを得ませんでした。まあ、ちよびちよびやるしかありません。 

 

昨夜、山岡荘八著 『水戸光圀』 を讀み終へたので、近ごろご無沙汰してゐた、《變體假名で讀む日本古典文學》の 『堤中納言物語』 の〈あふさかこえぬ權中納言〉を讀みはじめる。變體假名は讀めても内容を理解するのはむずかしい。註釋書のお世話になりながら、快適に讀みすすむ。 

また、嵐山光三郎著 『「下り坂」繁盛記』 を開いたら、「人の一生は、下り坂をどう楽しむか、にかかっている」、なんて書いてあつたもんですから、こちらも並行して讀みはじめました。まあ、ぼくの急坂にたいしてどれだけ參考になるかはわかりませんが。 

 

八月二日(金)舊七月二日(辛未 晴、暑い 

朝食の生卵かけごはんは力になります。今朝も書庫兼工房に木工の材料を運び、作業の環境を整へました。ですが、なにか肝心なものが足りない感じなんですね。さう、自分の坐るところ。それと作業臺と大型グラインダーの設置位置。さらに重要なのは排塵をどうするか。出た削りかすは大きければ周りに散乱するだけですが、グラインダーで飛び散るかすは何かで受け止めなければなりません。籠の内側にネットを張つてそのなかに放出させるかしかありませんが、願はくは大型の掃除機か吸塵器がほしいところです。 

考へたら、堀切に來て木工ができなかつたのは、塵がどこに飛んでいかうと氣にしないですんだ毛倉野とは違ひ、吸塵器でもなければ作業にならないと思つたからで、そのうちにいいやいいやになつて九年もたつてしまつたのでした。こんどは、どうにか工夫しませう。大量に作るわけでもなし、掃除機を利用すればどうにかなるでせう。 

 

なんといふ暑さだらう。今日も朝のうち汗を流しただけで、その後は冷房をつけた書齋で三匹の猫たちとたはぶれながら讀書。『堤中納言物語』 の〈あふさかこえぬ權中納言〉を讀みました。 

この物語は、「唯一筆者と成立年代が確認されている。天喜三年(一〇五五年)成立、筆者は小式部(小式部内侍とは別人)。「六条斎院物語合」(天喜三年五月三日物語歌合)のために新作された作品で、いわゆる「薫型」の貴公子の恋を描いたもの。」 

あらすじは、諸事にわたつて完璧な貴公子である中納言が、戀する姫君の所へ忍び込み、さまざまに口説いたけれどもついに契ることは出來ずに終はる、「逢坂の關を超えられなかつた」おはなしでありました。 

 

*換氣扇を利用した排塵装置。箸作りの場合はさらに大がかりになりました。右は、毛倉野を去る直前、ベルトグラインダーなどを取り外してゐるところです。左には吸塵器(R2-D2型)、奥には換氣扇。ベルトグラインダーと換氣扇の間に削りくずがたまるやうになつてゐます。

 


 

八月三日(土)舊七月三日(壬申 晴、暑い 

今日は土曜日、神保町と高圓寺の兩古書會館の古書市でしたが、はしごすることができず、神保町だけにしぼりました。つまり、古書會館を見たあとは古書店街を歩いた程度で息が上がつてしまつたからです。しかも、殘念なことに、古書會館では一册も心動かされる書がなく、結局先週と同じく古書店街で文庫本と新書本を數册求めただけに終はりました。 

 

日本文藝家協会編 『時代小説 ザ・ベスト2019 』 (集英社文庫)  二〇〇圓 

梅棹忠夫著 『夜はまだあけぬか』 (講談社文庫) 一〇〇圓 

丸谷才一著 『双六で東海道』 (文春文庫) 一〇〇圓 

保坂正康著 『あの戦争は何だったのか 大人のための歴史教科書』 (新潮新書) 二〇〇圓 

 

以上ですが、梅棹忠夫さんの 『夜はまだあけぬか』 には驚きました。先生は文化人類學者であるはづなのに、時代小説でも書いたのかと思ひましたが、なんと、闘病記でした。 

「追悼 名著復刻! 突然の失明。しかしなお、闘病に仕事に趣味にと新たな挑戦を続けた初代民博館長 梅棹忠夫の凄絶なる生き方を見よ。 

老年の域に達して学問・研究のしめくくりをつけなければならない大事な時期に、突然の視力障害におちいった筆者。くる日もくる日も夜がつづく。目が見えないのではどうしようもない。何かよい方法はないものか。闘病・リハビリ、さまざまな試みを経て新たなる知的生産に立ち向かう元民博館長の感動のドラマ。」 

ぼくの場合は闘病といふより、病氣とのおつきあひ程度ですが、限界をどう乘り越えられたのか、是非學んでみたい。そのためにも力をつけなければならないので、町田の柿島屋へ直行し、馬刺しをいただいてから歸路につきました。 

 

八月四日(日)舊七月四日(癸酉 晴、暑い 

嵐山光三郎著 『「下り坂」繁盛記』 讀了。まあ、面白いのがさきにたち、ぼくの急坂下りにはあまり役にたちさうもありませんでした。飲んで、騒いで、仲間とつるんでの旅や飲み會。さらには句會ときたら、ぼくにはまねのできない遊びぶりです。それが下ることか? と内心思ひました。 

つづいて、梅棹忠夫先生の 『夜はまだあけぬか』 を讀みはじめる。たしかに深刻で、讀んでゐてもつらい。朝目が覺めたら、まだ暗いので夜明け前かと思ひ、電灯をつけたけれどまったくあかるくならない。妻に「この電気くらいな」というと、妻は、『ちゃんとついているし、そとはとっくにあかるいのに』といふ」。わたしははじめておかしいと気づいた。」といふ出だしで、先生の過酷とも思へる闘病がはじまりました。 

眼球の奥にステロイドを注射し、MRI檢査をはじめあらゆる檢査や治療を試みても原因がわからず、回復もしません。そしてついに、「わたしのような生きかたを選択した人間にとっては、よみかきができないということは、文字どおり致命的である。いかに健康で、長寿をまっとうしても、知的活動をともなわないからだは、幹のなかが空洞化した老木のようなものだ。ただたっているというだけのことである。わたしは、はじめて死をおもった。人生の終焉について、かんがえさせられたのである」。 

起承轉結で言へば、まだ起から承に入つたところでかうですから、これからどのやうに展開し、病氣を克服されていくのか、興味が深まります。ちなみに、この時先生、六十六歳。この原稿はすべて口述筆記によるものださうです。 

 

「毛倉野日記(九)」(一九九四年十二月) の書寫はまだなかば。 

 

八月五日(月)舊七月五日(甲戌 晴、猛暑 

梅棹忠夫著 『夜はまだあけぬか』 讀了。ぼくが梅棹忠夫先生を知つたのは、學生時代に讀んだ 『知的生産の技術』(岩波新書) によつてでした。そして、この 『夜はまだあけぬか』 では、目が見えないといふ状況のなかでいかに知的生産をされたかが記されてゐて、どういふ境遇におちいつても知的生産はできるのだといふ希望をみずから證されてゐるのです。その成果が、「梅棹忠夫著作集」全二二卷別卷一で、「盲人の身をもってこの仕事を完成することができたことは、まことにしあわせであった」と記してゐます。もちろんそのためには、先生を支へる有能なスタッフがゐればこそです。むろん、「飲んで、騒いで、仲間とつるんで」とは比較できない生き方です。いづれにせよ、ぼくにはまねのできない生き方ですが、大いに學ばせていただきました。それにしても暑い!

 


  

八月一日~卅一日 「讀書の旅」    『・・・』は和本及び變體假名本)

 

八月二日 〈あふさかこえぬ權中納言〉 (『高松宮藏 堤中納言物語』 所収 日本古典文学会) 

八月四日 嵐山光三郎著 『「下り坂」繁盛記』 (ちくま文庫) 

八月五日 梅棹忠夫著 『夜はまだあけぬか』 (講談社文庫)