八月二十九日(月)癸未(舊七月廿七日 曇天雨降つたりやんだり一時晴

 

今日の讀書・・終日讀書。冷泉為人監修 『冷泉家 時の絵巻』 (書肆フローラ)、昨日より一氣に讀了。へたな感想より、第九章の対談、「冷泉家と日本文学」の冒頭で、お聖さん(田辺聖子)が言つてゐる言葉を紹介しませう。

 

「冷泉さんのお家にうかがって、やっぱり伝統のお家のかぐわしい匂いが感じられました。ここに長いこと、俊成、定家さんたちのお書きになったものが、大切に蔵(おさ)められ、心こめて伝世されてきた、そういう重圧感が感じられました。いい意味でのね。 

千年近くもの間、お家の方々や関係者の方々がいつくしみ、崇めて残してこられたということがどんなに大きな文化的大事業だったか、いまあらためて思われます。・・・戦乱や天災をくぐりぬけ得た僥倖もふくめ、貴重な秘宝が残ったのは、日本民族にとってはうれしいし、ありがたいことですね。」

 

まさに、その通り。で、ぼくに特に興味深かつたのは、第四章の「冷泉家の祖・爲家と阿仏尼」(赤瀬信吾)と、第五章の「霊元院と冷泉家」(小倉嘉夫)と、第八章の「冷泉家における書の継承」(名児耶明)でした。

 

第四章では、後に「二条家」と「京極家」(以上二家は南北朝時代に斷絶)と「冷泉家」とに分かれる三兄弟の父であり、定家の子、俊成の孫である爲家について詳しく知ることができました。後々「冷泉家」の祖となつた爲相(ためすけ)は、「二条家」の爲氏と「京極家」の爲教とは異母兄弟でありまして、その母は、爲家が五十六歳の時に出會つた阿佛尼で、當時二十八歳、爲家の末娘爲子の友人だつたといひます。 

補足しますと、爲氏と爲敎の母は、宇都宮頼綱の娘で、この頼綱の求めに應じて作つたのが 『小倉百人一首』 であることは知つておきませう。

 

爲家の没後、この阿佛尼が生んだ爲相と腹違ひの兄たちとの相續問題で活躍したのが母は強しの阿佛尼で、彼女は爲家の遺言の正當性を鎌倉幕府に訴へるのであります。その折りの紀行と鎌倉滯在の樣子を記したのが、有名な 『十六夜日記』 なんですね。この阿佛尼の努力がなければ、冷泉家も、他の二家よりもはやく斷絶してゐたかも知れません。

 

それと、もう一つ面白かつたのは、飛鳥井雅有との出會ひです。爲家と阿佛尼が同居したのは、爲相が生まれた頃で、住まいは「嵯峨中院にあった山荘」でした。奇遇にも、「病気がちで籠居していた飛鳥井雅有」の近所でして、それを知つた二十九歳の雅有君、七十二歳の歌壇の大先生のその家にしばしば聽講に通ふのでありました。 

その記録が、『嵯峨のかよひ』 に記されてありまして、これが面白い。古典文庫の 『飛鳥井雅有日記』 の中に見つけたので、ぺらつと讀んでみました。難しい文章ですが、意味はとれました。それによると、「土左の日記、紫の日記、さらしなの日記、かげろふの日記」などを借りて讀んでゐますし、「源氏物語」のお勉強では、 

「源氏はじめんとて、講師にとて、女あるじをよばる。すのうちにてよまる。まことにおもしろし。よのつねの人のよむにはにず、ならひあべかめり。わかむらさきまでよまる。よにかかりて、さけのむ。」 

女あるじとは、爲家の奥さんの阿佛尼。爲家に代はつてでせうか、講師をつとめ、終はるや否や、酒の席がもうけられたなんて、ぼくも出てみたかつた。「むかしよりの哥人、かたみにをぐら山のなだかきすみかにやどして、かやうの物がたりのやさしきことどもいひて、心をやるさま、ありがたし。」と、雅有君が代はりに書いてくれてゐます。