正月六日(月)舊十二月十二日(戊申・小寒) 

 

昨夜、ふと、五目あんかけ焼そばが食べたくなり、今日は柏に行つてきた。柏驛に隣接する、柏高島屋ステーションモール新館一〇階にその店、“麻布茶房”はあり、上野驛にもあるのだが、ぼくはこちらのはうが美味しいやうに思はれる。 

ちやうど、南柏驛前のビルで古本市が開かれてをり、さらに松戸のブックオフをも訪ねたら、佐々木譲さんの「道警シリーズ」が安かつたので、五册求めてしまつた。

 

*五目あんかけ焼きそばと、神保町のマジカレー 

 


 

正月七日(火)舊十二月十三日(己酉) くもり

 

昨夜、といふか今朝早朝、三國連太郎・沖浦和光対談 『「芸能と差別」の深層』 が讀み終つた。何日もかかつてしまつたが、すらりとは讀み流せないすばらしく濃い内容だつた。 

どんな刺激だつたかと言へば、まづ、さらに讀むべき本を敎へられたことだ。鶴屋南北の 『東海道四谷怪談』、永井荷風の 『江戸藝術論』、さらに、徳富蘆花の 『謀叛論』、またすでに求めたものでは、三國連太郎さんの 『親鸞に至る道』 と、沖浦和光さんの 『幻の漂泊民・サンカ』、それに、野間宏・沖浦和光著 『日本の聖と賤 中世篇』 である。

 

むろん、「藝能」のはなしであるから、その始原から今日までのその変遷と、それが時の權力にどのやうにあしらはれ、さげすまれ、利用されたか、しつかり學んだら、總理大臣主催の會などにへこらへこら參加するはづがない、そんな内容がはじめから終りまで展開してゐる。要するに、いかに今日の藝能界が堕落し、その結果毒にも藥にもならない、つまらないものになりさがつてゐるかがよくわかる。 

 

三國 歌舞伎にしても、一見きらびやかにみえる様式美の背後には、怨念・憤怒・猥雑・怪奇・幽界・鎮魂といったさまざまな情念に彩られた世界が展開されていますね。 

沖浦 官僚化した武家的儒敎と腐りきった仏教が説ききかす既成道徳のなかで、ひそかに脱出口を求めていた民衆のひそやかな願い、そして彼らの鬱々とした意識下にある何ものかを表現することに成功した。 

三國 だからというわけではありませんが、文化勲章のようにお上から順ぐりに表彰される制度は、芸人にとっては、あまり嬉しいことじゃないような気がします。 

沖浦 権力のヒモが付いて国家の庇護下に入って、お上から勲章やゼニカネを貰って喜んでいると、そこから芸術の堕落が始まるのが世界の芸術史の通例ですね。 

三國 やはり時代を主導する精神に疑問を抱き、既成の支配体制の矛盾を批判して、時代のあり方や人間の生き方を、飽くことなく追求していこうとする意欲─それをどう表現していくかという貪欲な意欲が、その時代に生きようとする芸人にとって本当に大事なんですね。 

 

といふわけで、たくさんたくさん學ばせていただいた。利休の師匠であつた武野紹鴎が「皮革を商って財を成した」人物であつたこと、その利休が竹を愛し、今日重要文化財になってゐる花生けが、「桂川の漁師から譲り受けた魚籠」だつたこと。つまり皮や竹を扱ふ「賤民」とのかかわりが深かつたことを知つた。さらに、『竹取物語』 が藤原不比等をはじめとする當時の律令國家形成への批判の書であることにもふれ、上澄みの歴史理解ではただしく日本の歴史を學んだことにはならないことを痛感したしだいであつた。 

つづいて、野間宏・沖浦和光著 『日本の聖と賤 中世篇』 を、つい手にとつたら、これまたやめられなくなつてしまつた。まあ、鐵は熱いうちに打てといふから::いいか。 

 

沖浦 いうなれば、〈制度化されたもの〉だけが視野に入ってきて、既成の秩序からハミ出した〈制度化されないもの〉は、読解不能の曖昧なものとして切り捨てられてきた。そういった荒っぽい歴史図式の網の目からこぼれ落ちてゐた民衆の生きざまをたんねんに拾い集めてきたのが民俗学であった。 

野間 たんに史料の表層だけの解釈に終結するのなら、歴史の深層にあるものは見えてこない。::中世社会に根をもっているところの賤民文化史は、日本文化史のひとつの大きな鉱脈なんです。 

 

このやうにして、例へば、「土佐を訪れて、十数ヵ所の部落を歩」いて、その地區の古老からはなしを聞き、殘る古い史料を調べ回つたその結果を踏まえた議論なので、實に説得力がある。 

栗田勇さんが語つてゐた、「この国の歴史のなかを、名もつげずに、ひたすら足早やに去っていった漂泊者」 への思慕が、このやうに學ぶことを通して少しは滿たされるだらうか。期待したい。 

 

 

正月八日(水)舊十二月十四日(庚戌) 晴、冷える

 

『源氏物語〈玉鬘〉』 を讀み進める。が、どうしてか眠くて眠くて、目を開けては讀み、また寢込みしては過ごした。それでも、玉鬘一行が大宰府から歸京、といふか逃れたきた後、長谷寺へ參詣し、そこで夕顔の侍女で、現在は紫の上に仕へてゐる右近と出會つた場面と、右近と玉鬘の乳母が玉鬘を今後どのやうに遇していくかを話しあふあたりがじつにいい。 

 

昨日は、釈徹宗著 『法然親鸞一遍』(新潮新書)、今日は、梅原猛著 『梅原猛の仏教の授業 法然・親鸞・一遍』(PHP文庫) が屆く。しかし、五木寛之著 『隠された日本 大阪・京都 宗教都市と前衛都市』 はまだ屆かない。 

 

 

正月九日(木)舊十二月十五日(辛亥) 

 

今日はぶらぶら散歩。目的もなく神保町を歩いてきた。ふだんは避けてゐる三省堂や東京堂に入り、とくに新刊の文庫本がどんなものが出てゐるのかを觀察してきた。佐々木譲さんの例の「道警シリーズ」は八册まで出てゐるやうである。しかし實際に求めたのは古書店で、文庫本ばかり、いや、ただ一册、五木寛之・沖浦和光著 『辺境の輝き 日本文化の深層をゆく』(ちくま文庫) だけは三省堂で買つてしまつたが、他はすべて二册一〇〇圓から、一册一〇〇圓のものばかり、一〇册ほど求めてしまつた。めつけもんは、野間宏の 『歎異抄』(ちくま文庫) と、杉本苑子の 『鶴屋南北の死』(文春文庫)、それに森詠さんの時代物などである。 

さうだ、八木書店と一誠堂書店に寄つたところ、顔なじみとなつた店員さんにお會ひしたのであいさつした。また來たかと言はれさうで恐縮してしまふのだが、氣持ちよくおはなしができた。

 

外出の今日は、先日南柏で求めた、日本冒険作家クラブ編 『夢を撃つ男』(ハルキ文庫) といふ短編集を持つて出たが、歸宅後も讀みつづけ、夜寢るまでに讀み終へてしまつた。七人の著者のうち、やはり、船戸与一がピカイチだつた。久々にアドレナリンが噴出した! 

 

歸宅すると、本が屆いてをり、はじめ、昨夜キャンセルした、『隠された日本 大阪・京都 宗教都市と前衛都市』 が屆いてしまつたのかと思つたら、從兄の井田善啓さんの歌集だつた。『歌集 海底の魚』。短歌をはじめてもう五〇年になるといふ、その記念となるはじめての歌集である。澁い装丁である。 

善ちやんは、ぼくの母の兄の子で、ぼくが子どもの時から入り浸つてゐた田舎のいとこたちの最年長、で、それほど一緒に遊んだ記憶はないが、親しい間柄である。 

奥書をみると、上毛文学賞とか、毎日新聞文園短歌年間賞とか、群馬県文学賞(短歌部門)とか、吉野秀雄賞までとつてゐる凄腕だつたのだ。短歌を作つてゐるとは聞いてゐたけれども、ぼくは歌は古典の歌集を讀むばかりで、話にでたこともなかつた。能ある鷹は爪を隠す、か! 

今日の歩數、七〇四〇歩。いい散歩だつた。 

 


 

 

正月十日(金)舊十二月十六日(壬子) 

 

今日は思ひきつて、パソコンを替へてみた。書齋では猫たちが騒がしいのでデスクトップが使へず、ここのところベッドでノートパソコンを使用してゐたけれど、寫眞の加工等ができないので、どうにも齒痒かつたこともある。デスクトップとはいへ、ベッドのテーブルにうまく置くことができたし、そもそも畫面が廣いし、文字も大きい。ただ、起動と作業動作に時間がかかるのがで、それでイライラしてしまふのであつた。 

それで、多少なりとも動きをよくしようと、しまひこまれてゐる重たい寫眞をほとんどを削除して、輕くしてみた。はたして氣持ちよく動いてくれるのか。それにしても一年近くさはりもしなかつたので、手順を忘れてしまつた。はたして、うまく寫眞の加工ができるだらうか。 

それもさうだが、メールのアドレスが移せないのには困つた。變更した人を含めて、ひとり一人確かめてみなければならない。  

 

 

正月一日~十日 「讀書の旅」   ・・・』は和本及び變體假名本)

 

正月二日 五木寛之著 『隠された日本 中国・関東 サンカの民と被差別の世界』 (ちくま文庫) 

正月七日 三國連太郎・沖浦和光対談 『「芸能と差別」の深層』 (ちくま文庫) 

正月九日 日本冒険作家クラブ編 『夢を撃つ男』 (ハルキ文庫)