六月廿六日(金)舊五月六日(庚子)  くもりときどき日差し

 

藤原資房の日記 『春記』 をよみすすむ。とはいへ、いまだ三割ほどしか理解できてゐないだらうが、おもしろいことがわかつてきた。それは、じつは、かたはらに 『日本年中行事辞典』 を用意してよみすすんでゐるけれど、ほとんど役に立たない、といふか、役に立つてゐないのである。つまり、藏人頭たる著者の關心が、公務(宮中の諸行事や儀式)を行つたことは記しても、むしろ關心は、同僚や上司、關白などにたいする批判や非難、個人的なできごとを記すのに向いてゐるのである。

たとへば、關白賴通にたいしても痛烈である。

「是れ関白の御定か。近代の作法触穢竝びに服等の事、只関白の脣吻(くちさき)にあるか。夷狄の地に異らず。指弾すべきの代也」

また、藏人頭たるもの、その職務たるや苛酷なやうで、自分の家に歸つて寢るひまさへなかつたやうなのである。

宿泊はといふと、「今夜宿侍」、「子の尅許り参内宿侍」、「予又復命を奏し畢って宿侍」、「今夜女院(彰子)憲房の宅に渡る〔春宮(後冷泉)の御在所地〕。仍て扈従。深夜帰参宿侍」 といふやうに、「宿侍」とは、いはゆる宿直のことであらう。内裏には宿直所(とのゐどころ)があつたはづなのである。

だから、仕事が終つてからでも、「即ち家に帰る。夜に入って参内宿侍」となる。

あるいは、

「申の時許り白地(あからさま)に家に向い、女房に相遇い、家中の雑事等を談ず。多くは是れ万事諧(かな)わざるの事等なり」

「未の時許り、立ち乍ら富小路に向い、女房に遇い、雑事等を談ず」、とは、せつない!

それと、興味深かつたのは、

「延木の御日記廿卷、故朝経卿の息基房の許より、借り取り書写し了んぬ。件の御記絶世の記也。世間流布の御記の中、記せられざるの事等皆此の御記の中に在り」

といふくだりである。これはおそらく、「延木」は「延喜」であらうし、延喜の時代に、「延喜式」を撰進したあの貞信公、藤原忠平の『貞信公記』(廿卷)に間違ひないと思ふ。これが 「密々書写」されてゐたといふのだからおもしろい。

途中、缺けてゐる部分もみられるが、わからないなりに引き込まれてしまふ。

 

かたはら、『源氏物語三十二〈梅枝〉』(靑表紙本) をよみはじめた。

また、妻がすすめるので注文した、若松英輔著 『悲しみの秘義』(文春文庫) がとどく。

 

 

六月廿七日(土)舊五月七日(辛丑)  曇天

 

今日は終日ベッドで讀書。橫になつてゐても讀みやすい、『源氏物語〈梅枝〉』 をよみはじめたけれど、また文句が言ひたい。それは筆の文字がよみにくいのである。くせがあるとか獨特の筆であるといふのともちがひ、下手なのである。どうして定家さんは、こんな文字を書く助つ人をゆるしたのだらう。

それと、『春記』 をよみすすんでゐて、道長以後の歴史物語ならば、『今鏡』 があることに氣づき、さがしてみた。すると、押入のなかに、『今鏡 上・下』(日本古典文学影印叢刊) をみつけた。分厚い上下二册本だが、たいへんよみやすさうな筆文字である。

内容は、「『大鏡』 の後を継ぐ書として、『大鏡』 の記事が終わる後一条天皇の万寿2(1025)から高倉天皇の嘉応2年(1170)までの13145年間をあつか」つてゐる。王朝時代から院政、さらに平家政權へとつづく時代を描いてゐる。『今鏡』 については、學習院さくらアカデミーの関幸彦先生の講座にも出たことがあるが、やはり自分で讀むしかない。

 

夜、妻に、髪の毛を十五センチばかり切り取つてもらふ。ぎりぎりにうしろで結べる程度で、とてもらくに洗髪ができるやうになつた。

 

 

六月廿八日(日)舊五月八日(壬寅・上弦)  雨

 

今日も藤原資房の日記 『春記』 をよみすすむ。遲々たるもので、毎日數頁しかよめないが、記してあるところはけつこう刺激的である。

たとへば、長曆三年(一〇三九年)十一月十五日、

參内した資房にむかつて、「主上仰せられて云う、去る十三日大原野祭に内侍参入の間、下人鬪諍の事有り。而るに今に左右せず。早く明日早く関白に触れ左右すべき也。是れ内侍申さしむる所也」

これなんか、資房に命じてゐる後朱雀天皇の直々のことばである。天皇のことばがこのやうに直截に記されてゐるのを、おそらくぼくははじめてよんだ。

事件は、十三日におきたが、十四日にその経緯が現場にゐた部下の報告として記録されてゐる。

「滝口能季(よしすえ)来って云う、昨日中務内侍(の)使として大原野に参る。途中に於いて下人来向、内侍の従者と闘乱、下人一人刀を抜いて車の前に走り向う。仍て搦めしめるの間、能季の従者頗る刃傷、然りと雖も搦め得る所なり。件の下手(人)は権弁の従者なり」

「権弁」の従者が、「中務内侍」の従者、といふよりも、中務内侍にむかつて斬りつけたといふできごとであるが、はたして兩者の間にどのやうな諍ひがあつたのであらうか。探るのはむずかしさうだが、ここでは、斬りつけられた「中務内侍」のはうから、天皇に泣きついたのでもあらう。加害者の「権弁」の處分はどうなつてゐるのか、「早く明日早く」關白に問ひただせといふ切迫した天皇の命令であることがわかる。

 

 

六月廿九日(月)舊五月九日(癸卯)  晴のちくもり

 

《變體假名で讀む日本古典文學》、ここのところその讀書豫定が混み合つてきてしまつた。現在、『源氏物語』 までやつてきたのはいいとして、これが長編だからなのだが、並行して 『宇治拾遺物語』 をよみはじめたところ、こんどは 『平家物語』 も加はつて、それが混雑の發端といへるだらうか。

この三册を讀むだけあるならば單純なことだけれども、この間の時代の樣相といふか推移を確認しようとしたために、ちよいと脇道に迷ひ込んだ感じなのである。

『源氏物語』 の時代から 『平家物語』 の時代にはどのやうなことがあつたのか。そのために、『百錬抄』 やら 『史料綜覽』 やらをもちだしたけれど、どうも、ただ年表を見ただけではとらへられるものではないやうなので、それで、『春記』 を讀みはじめたわけだが、これがけつこうはらはらする。

『春記』 の筆者、藤原資房といふ人物は、河北騰著 『歴史物語と古記録』(おうふう) によると、「彼は、公務に精励しても、天皇・賴通の双方から不信を買うのみで、自分の立場は浮き上ったものになってしまう点を嗟嘆する。珍しく不平・愁嘆などの主情的色彩の強い記録であり、読者の同情をさそう所も多い」といふ内容なのである。

はらはらするのも尤もなのである。それでも、「総じて、後朱雀から後冷泉・後三条へと、院政期突入の前夜の様相を窺わせる貴重な記録」であるといふ。やはり努力してでも、このさい讀み通すしかないであらう。

それに、この同じ時期を扱つた作品に 『今鏡』 もあり、しかもこれは影印書だから、しばらくしたら讀み出したい。

 

 

六月卅日(火)舊五月十日(甲辰)  曇天のち雨

 

今日も藤原資房の日記 『春記』 をよみすすむ。

また、『源氏物語〈梅枝〉』、五〇頁ある靑表紙本のおよそ半分ほどよみ進む。 

 

*二〇一六年六月十三日にはずぶ濡れのモモタが、同じ月の二十九日には放浪兒のココが來て、およそ四年になる。どうにか幸せになつてくれてゐるだらう。以下は、それぞれ出會つた當日の寫眞。

 


 

 

六月一日~廿日 「讀書の旅」 ・・・』は和本及び變體假名・漢文)

二日 林丈二著 『猫はどこ? 街歩き猫と出会う』 (廣済堂出版)

八日 東京大學史料編纂所編纂 『史料綜覽卷一 平安時代之一』 (東京大學出版會)

八日 五味文彦著 『平家物語、史と説話』(平凡社選書) のうち、「第三章 記録と史書のはざま」

十日 山中裕著 『平安人物史』(東京大學出版會) のうち、「第五章 敦康親王」と「第六章 敦明親王」

十二日 酒井みさを著 『上東門院の系譜とその周辺』 (白帝社)

十三日 紫式部著 『源氏物語三十〈藤袴〉』 (靑表紙本 新典社)

十五日 路上観察学会 『路上観察 華の東海道五十三次』 (文春文庫ビジュアル版)

十七日 繁田信一著 『殴り合う貴族たち』 (角川文庫)再讀

十八日 紫式部著 『源氏物語三十一〈眞木柱〉』 (靑表紙本 新典社)

十八日 大野晋・丸谷才一著 『光る源氏の物語(上)』 (中公文庫)

廿日 繁田信一著 『王朝貴族の悪だくみ―清少納言、危機一髪』 (柏書房)

廿日 セネカ著 『幸福なる生活・他一篇(人生の短さについて)』 (岩波文庫)再讀

廿三日 山本貴光・吉川浩満著 『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。: 古代ローマの大賢人の教え』 (筑摩書房)

廿四日 土田直鎮著 『日本の歴史5 王朝貴族』 (中公文庫) のうち、「欠けゆく月影」の章

廿五日 古瀬奈津子著 『シリーズ日本古代史6 摂関政治』 (岩波新書) のうち、「第六章 賴通の世から 『末世』 の世へ」 と 「おわりに『古代貴族』と『律令国家』の終焉」