二月廿一日(金)舊正月廿八日(甲午) 晴

 

今日はいい天。明るく暖かい窓邊で猫たちも居眠り、讀書もはかどる。それで、谷川健一・中瀬喜陽・南方文枝著 『素顔の南方熊楠』 を讀了。 

谷川健一さんの書いた 「二人の巨人──南方熊楠と柳田国男」 の章のなかで心に殘つたのは次ぎの二點。一つは、當時起きた神社合祀令に對する熊楠の猛烈なる反對運動に即して、「人間の歴史は、いつもとりかえしのつかない歴史です。人間の歴史には、ちょうどいいという歴史はないのです。過去を振り返って、とりかえしがつかないという身もだえというか、衝撃というか、そういうものをバネにして動いていくということが言える」。

 

もう一つは、「南方熊楠と柳田国男は地下水のやうなものだった。政治的な季節になると、二人の文章はなまぬるいと思われ、政治的に反動的な社会になると、今度はラジカルにみえる。しかし、そう見えるだけで根底は全然変わらない。常温を保っているからです。熊楠と柳田が日本人の深層というか、一番深いところまで降りていこうとした、そしてそこから彼らの知識を得ようとした、ということにあると思ふ。・・・新しものがいい、古いものは悪いという考えを持つ日本人には、古いものの中に新しいものがあると言いたい。古いものに還ろうとする努力が新しさを、真の創造を生みだすというふうに考えたらいい」。 

南方熊楠は、「日本の博物学者、生物学者、民俗学者」として紹介されてゐるが、粘菌やキノコ、藻類、コケ、シダなどの研究についてはぼくは門外漢であり、興味もないと言つていいが、せめて民俗學の著作は讀んでみたいと思ふ。が、何と言つても、奇行にあふれた「奔放自由なその純粋な生き方」に興味がそそがれる。

 

本書の中で、谷川さんが、「熊楠の手紙は、日本で最高の手紙です」とおつしやつてゐるが、たしかに全十二卷の全集のなかの四卷が書簡集といふのだから、その數といふか量だけでも厖大。手紙とは言つてもまるで論文。その筆頭にあげられるのが、なんと言つても、『履歴書』 と題された書簡である。南方植物研究所設立の際、基金の助成依賴に關して求められた要請に應へたもので、卷紙、「二通合わせて八メートル三〇センチ、字数三万七千字余を費やしたもの」であるといふ。 

幸ひ、昨日屆いた、平野威馬雄著 『くまぐす外伝』(ちくま文庫) に附録として掲載されてをり、しかも 「筆者の一存で、口語体に書きあらためた」ものなので、これを讀むことにした。それでも、八七頁ある。 

 

やはり、書庫を探したら、『南方熊楠隨筆集』(筑摩書房) が出てきた。一九九三年八月に購入と記載。すると中から 「超人 南方熊楠展」 のチケットが出てきた。期間は、一九九一年七月十七日~二十九日。それで當時の日記(ポケットカレンダー)を見たら、「七月十七日 (中野のKさんに)木工作品を屆ける。ついでに小田急デパートの南方熊楠展を見る」 と記してあつた。川和時代のことだ。そのころから木工をしてをり、南方熊楠にも興味をもつてゐたのだつた。

 

また、ポケットカレンダーの同月の二十五日に目を移したら、「岩城正夫先生來訪、フリント石をいただく」 とあり、その當時のことがおぼろげながら浮かんできた。川和時代、妻が和光大學に入り(夫のぼくが推薦書を書いて受驗)、妻の授業に同席したり、奈良へのゼミ旅行におともしたり、原始技術の岩城先生と親しくなつて、お招きしたのがこの頃だつた。フリント石といふのは、いわゆる火打石のことで、このヨーロッパ産(アイルランドだつたかそのへんは忘れたけれど)の石は指輪のやうに穴があいてゐて、それを岩城先生からいただいた妻はたいへん喜んで、ぼくがプレゼントしたラピスラズリとともに今でも部屋の片隅に掛けてある。 

ちなみに、岩城正夫著 『原始人の技術にいどむ』(国民文庫―現代の教養) を讀んでゐたので、先生から直に「火おこし」を傳授していただいた。それを、川和保育園の卒園式で披露したら、みなびつくりして、それから何人かの子どもたちが教會學校に來るやうになつた。じつに樂しい思ひ出である。 

 

*岩城先生を迎へて。あれ、李さんもゐる。妻の學友が大勢來訪したけれど、李さんはひときは輝いてゐた! それと、フリントとラピスラズリ。 

 


 

 

二月廿二日(土)舊正月廿九日(乙未) 曇り、一時日が差すが、強風

 

今日は朝から曇り空。だが、古書散歩を怠つてはいけないので、高圓寺と神保町の古書會館をめざして歩いた。新型肺炎の恐れがあると叫ばれてゐるにしては人出もまあまあで、これでいいの? と、ぼくが言へる立場ではないけれど、どこもにぎやかだつた。 

それで、掘出し物は、やはり高圓寺のはうが多かつた。まあ、初日だからでもあらう。神田のはうは二日目だからか人も少なく閑散としてゐた。 

まづは、高圓寺では、先日讀んだつづきでもある、野間宏・沖浦和光著 『日本の聖と賤 近世篇』 (人文書院)。そして、南方熊楠關係が、次の四册。 

松居竜五著 『南方熊楠一切智の夢』 (朝日選書) 

松居竜五・中瀬喜陽・他編 『南方熊楠を知る事典』 (講談社現代新書) 

『新潮日本文学アルバム 南方熊楠』 (新潮社)  

『季刊 柳田國男研究  特集・柳田國男と南方熊楠』 (白鯨社) 

それと、今すぐに必要ではないけれど、長年氣になつてゐた、フィネガン著 『聖書年代学』(岩波書店)。これが一五〇圓だといふので、購入せざるを得なかつた。相場ではいくらか知らないが、學術的に貴重な本である。 

また、神田では、『西國三拾三所縁起 第五風 十七番~二十番』 と、『廣益俗説辨 六 天子』、『廣益俗説辨 十五 僧道』 の和本三冊。 

以上、今日の歩數は、五四二〇歩。 

 

*中央上がチケット

 

 

二月廿三日(日)舊正月卅日(丙申) 晴、強風

 

今日はぼくの誕生日。七十三歳になつた。母と妻に、よくここまで生きられたねと言はれた。妻は、ぼくが心臟の手術を受けて成功した時、それでも長くは生きられないだらうと本氣で思つてゐたらしい。ぼくとしては、せめて平均壽命まで生き延びて讀書を滿喫し、好きなものを食べてすごしたい。 

 

南方熊楠が書いた 「履歴書」 (平野威馬雄著 『くまぐす外伝』 所収・ちくま文庫) を讀み終へた。長文である。履歴書といふと、普通は、何年何月に生まれて何々學校卒業云々といつた年月日順の箇條書きだけれども、熊楠の書いた履歴書はかたやぶり。まあ、思ひ出話や自分の考へや主張を綴り合はせたといつたらいいだらうか。次のやうな文章をあげておきたい。書かれたのは大正十四年(一九二五年)、熊楠五十九歳である。 

「日本今日の生物学は德川時代の本草学、物産学よりも質が劣る。と、申しますのは、德川時代に本草学をやった人たちはみな心の底から学問が好きで好きでたまらなくてやったのです。ところが今日の科学者ときたら、その学問をもって、卒業論文又は糊口の方便としようとのみ心がけるので、おちついて実地を観察することに努力せず、ただただ洋書を翻訳して聞きかじり学問に得々としているだけのことです。そんなことでは何の創見も実用も挙がらぬわけです」。 

と、そこで、その實例をことこまかにあげるのだから、長文になるのは必然。

 

と言つたふうに、これでは履歴書ではなく、所信とふか見解の羅列であつて、でもたしかに熊楠がどんな人物かが浮かび上がつてくるのだから、これぞまことの履歴書と言へるのかも知れないし、面白いといへばこれほど面白い履歴書はない。 

つづいては、ぐつと讀みやすさうな、神坂次郎著 『縛られた巨人 南方熊楠の生涯』(新潮文庫) を讀みはじめる。

 

 

二月廿四日(月)舊二月朔日(丁酉・朔) 晴

 

今日も窓邊は暖か。居眠りばかりで、讀書進まず。 

午前一一時から、NHKテレビで、「塩野七生と一〇代対話 『歴史は未来! 八十二歳作家痛快メッセージ!』」 といふ再放送を見る。たしかに痛快だつた。たばこをスパスパやられてゐるところなんて、格好よかつた!  

ぼくの心に殘つたのは、

 

「今、うまくいつてゐないと感じるのは、先を讀んでしまふから。目の前のことに集中し、まづは目の前の山に登ること。そしたら次の山が見えてくる」 

といふことと、 

「正しいこととはなにか?」 といふ高校生の問ひに、「正しいもの(こと)を探しだすと出口が見えなくなる。正解は無い。みつともないことをしない、見苦しいことをしない、といふ規範が、出口になると感じてゐる」 

まつたくその通り、と思つた言葉だつた。

 

*今日のグレイとココ。グレイはもちろん、ココがかはいい! 

 


 

 

二月廿五日(火)舊二月二日(戊戌) 曇天

 

神坂次郎著 『縛られた巨人 南方熊楠の生涯』 を讀み進む。それでもやつと半分。アメリカ、イギリスでの十五年にわたる放浪生活を切り上げて歸國したけれど、和歌山の弟夫婦に嫌はれて追ひ出され、那智におもむいたところまで。 

十五年の放浪生活だと書いたけれど、その中味は尊敬に値する。 

「勉強が大好きだが学校が大嫌いという少年のころの熊楠の性向は、留学したアメリカでもイギリスでも変ってはいない。大学に入ることにも学位にも興味を示そうとせず、権威に頼らず、わが目で万巻の書を読破し、自分の目で植物を観察し採取し、自分で考え自分で励んできた。それがリテラリーマン(文士)だと、熊楠は思う。このリテラリーへの思いは、熊楠の生涯を貫いている」 

彼はイギリスにおいては、「《エンサイクロペデアに二本足が生えて歩きだしたような》といわれた博物館の名物男」であつた。

 

そもそも、「熊楠の幸運は、ここが日本ではなくイギリスであったことであろう。いや、イギリスばかりではない。・・・アメリカ国立博物館の館長、そしてまた、無名の貧書生の熊楠が発見したグァレクタ・クバーナを世に発表してくれたフランスのニーランデル博士。それらの人びとの好意は、権威主義的で閉鎖的で偏狭で嫉妬心の強い日本の学界世界では考えられないことであった。民間の、なんの背景も学閥も持たない貧しい青年が、どれだけすばらしい発見をしても、論文を書いても、日本の国立大学や学者が、そんな栄光を与えてくれるはずはなかった」 

だから、無位無官の熊楠が歸國したとき、弟家族からは喜ばれるどころか疎んじられて、生活するにも事缺き、追ひやられることになるのだけれども、それでもめげないところが熊楠の熊楠たるところである。 

「結局は常楠夫婦から追放されて、生活は保障するから 《当分熊野の支店へゆくべしとのことで、熊野勝浦港にゆく》 ことになり、熊楠の本領を發揮する機會がやつてくる。

 

「熊野は “熊野神の宿る楠” をわが名にもつ自然児熊楠の期待を裏切ることはなかった。じじつ熊楠は、この三十五歳から七十五歳で没するまで、唯一度の東京への旅を除いたほか、熊野から離れることなく生涯を終っている」 

「植物採集には、案内者の三次と、荷持ちの玉小父を連れて、はじめて那智、妙法山に登った」

さて、その後の熊楠を待ち受けてゐたことは・・・・?  

 

 

二月廿六日(水)舊二月三日(己亥) 曇天

 

今日も 『縛られた巨人 南方熊楠の生涯』 を讀み進む。今日のところは、那智での山籠りから、田辺定住までの内容なので、和歌山縣の地圖が役に立つた。その足跡をたどつてみると、熊野が昔も今もいかに山深いところかがわかる。 

父とかつてツアーで訪れたのはバスであつたし、ほんのちよつとつまみ食いした程度の旅だつた。でも雰圍氣は味はうことができたし、思ひ出ぶかい旅行だつた。 

 

 

二月廿七日(木)舊二月四日(庚子) 晴

 

今日はなんとなく體調思はしくなく、終日橫になる。橫になればなつたで讀書はできるものの、なんとなくうつらうつらして寢てばかり。讀みかけの 『縛られた巨人 南方熊楠の生涯』 もとぎれとぎれに讀み進む。 

晩年の熊楠は、弟夫婦の殘酷な仕打ちに打ちひしがれ、しかも息子の熊弥が精神病になつたりで、決して惠まれてはゐなかつた。 

しかし、熊楠の人生の絶頂を迎へることとなつた。 

「熊楠の生涯で最大の栄光は、若き(昭和)天皇の御前で粘菌学の御進講(講義)を申しあげたことであろう」 

だが、熊楠にとつて何よりも幸せだつたのは、大勢の友人や弟子に惠まれて生涯を歩み通すことができたことであらうと思つた。 

卷末の、北杜夫との 「〔対談〕 人間・南方熊楠に迫る」 のなかで、北杜夫が本書について次のやうに話をまとめてゐる。 

「とにかくこの本は、熊楠の人間的魅力、奔放さ、奇人ぶりがふんだんに書き込まれていてたいへんおもしろうございました。ただそれだけでなく、権威主義で閉鎖的で嫉妬深い日本の学界に対する警告の書としても読めます」 

それは、熊楠を讀んであらためてわかつたことで、なぜ日本の學界や政界が、「権威主義で閉鎖的で嫉妬深い」か、それは現在においても、愚者がそろつて力をもつ政党が、同じ愚者をかばひあひ、まつとうな道を指し示す政党やその意見に耳を傾けないどころか、排除してゐることでもよくわかる。愚者が多いはうが愚かな自分も生きやすいからである。それをまた、支持してゐる國民はほんとうに愚かとしか言ひやうがない。日本の國はこのやうにして愚者に支配され、衰退してゆくのだらう。學界も同樣であらう! 

つづいて、同じ神坂次郎の 『およどん盛衰記 南方家の女たち』 を讀みだす。「およどん」とは、女中とか下女のことで、熊楠家に雇はれたお手傳ひさんの物語である。 

 

 

二月廿八日(金)舊二月五日(辛丑) 晴のち曇天

 

今日も橫になつて過ごす。書齋は猫部屋と化し、掃除も行きとどいてゐないけれど、座り込んでしまへば我が玉座!

 

神坂次郎著 『およどん盛衰記 南方家の女たち』(中公文庫) 讀了。 

内容・・・雀のおうめ、やたけたお留、影武者おつる、馬芝居お春・・・・七人の女中さんが見た、南方熊楠面白万華鏡。熊野田辺を終の住処とした熊楠の周辺にいる、さまざまな愛すべき人びと。そのゆかいな仲間と繰り広げる珍騒動の日々。

 

つづいて、この一月、二月はお勉強で頭を使ひ過ぎたので、氣分をかへて、佐々木譲さんの北海道警シリーズを讀みはじめる。 

 

 

二月廿九日(土)舊二月六日(壬寅) 晴

 

昨夜、『笑う警官』 を讀みはじめたら、はらはらドキドキ、明け方まで寢られず、晝過ぎに起床し、ついに讀み通してしまつた。面白かつた!! つづいて二册目に入る。 

 

 

 

二月一日~廿九日 「讀書の旅」 ・・・』は和本及び變體假名・漢文)

 

二月五日 澤田ふじ子著 『神無月の女 禁裏御付武士事件簿』 (徳間文庫) 

二月九日 澤田ふじ子著 『朝霧の賊 禁裏御付武士事件簿』 (徳間文庫) 

二月十日 佐々木信綱著 『原本複製 梁塵秘抄』 (好學社) 

二月十日 大江匡房著 「遊女記」 (『群書類從 第九輯 文筆部』 所収) 

二月十日 大江匡房著 「傀儡子記」 (『群書類從 第九輯 文筆部』 所収) 

二月十二日 澤田ふじ子著 『王事の惡徒 禁裏御付武士事件簿』 (徳間文庫) 

二月十五日 紫式部著 『源氏物語二十三〈初音〉』 (靑表紙本 新典社) 

二月十七日 五木寛之著 『日本幻論 ―漂泊者のこころ・・蓮如・熊楠・隠岐共和国』 (ちくま文庫) 

二月十八日 森詠著 『ひぐらし信兵衛残心録 秘すれば、剣』 (徳間文庫) 

二月廿一日 谷川健一・中瀬喜陽・南方文枝著 『素顔の南方熊楠』 (朝日文庫) 

二月廿三日 南方熊楠著 「履歴書」 (平野威馬雄著 『くまぐす外伝』 所収・ちくま文庫) 

二月廿七日 神坂次郎著 『縛られた巨人 南方熊楠の生涯』 (新潮文庫) 

二月廿八日 神坂次郎著 『およどん盛衰記 南方家の女たち』 (中公文庫) 

二月廿九日 佐々木譲著 『笑う警官』 (ハルキ文庫)