二〇二〇年六月(水無月)一日(月)舊閏四月十日(乙亥) 小雨

 

今朝は齒科の通院日にあたつてをり、幸か不幸か朝食のときに上の差し歯がぐらついてゐるのに氣がついたので診てもらつた。今回もまた若先生だつたが、修復にはいつもの三倍の時間がかかつてしまつたが、ていねいに掃除もしていただいた。そのうへ別の蟲齒を發見してくださり、今週末にふたたび通院のはこびとなつた。すでに嚴重な防備態勢が寛和されてゐて、安心して診てもらふことができた。

 

だが、今日一日、目がしよぼくてしよぼくて起きてゐられず、橫になつてどうにか讀書。パルスオキシメーターではかつたら、酸素量が92なんて出たときにはびつくりしたけれど、それも一時的な値でいちおう安心した。先日のかたづけから腰も痛くなり、食欲もなくて、まるで入院生活だ。 

 

それでも、新しい月を迎へて、いよいよ 平家物語 百二十句本』(古典文庫) を本格的に讀み出した。今日一日で、講談社文庫の流布本系でいふなら、「鱸」、「禿童」、「我身榮華」まで進んだ。變體假名をたどりつつ單語や内容を確認しながらよんでゐるので、細部までくはしくよむことになる。淸盛に八人のむすめがゐて、「みなとりさいわひし給ふ」たといふ。それがまた詳しく記されてゐるのだ。きつとこれらは物語の伏線になつてゐるのだらうと思ふと、忘れないやうにこころがけたい。 

それで、また思ひついたのは、『百錬抄』 をはじめから讀むことである。ただ、先日、『百錬抄人名総索引』 が手に入つたからといふわけではなく、四年前に一度よみかけたのだが、そのときは 『日本紀略』 を讀んでゐたので、重複する部分をよまないでゐたけれど、 『日本紀略』 はすでによみ終へたので、『百錬抄』(新訂増補國史大系 吉川弘文館) をはじめからよんでみたいと思つた。 

『百錬抄』 は、安和元年(九六八年、安和の變の前年)から、正元元年(一二五九年)十二月まで、龜山天皇が践祚し、親鸞が亡くなる三年前の時代まで、平安時代から、鎌倉時代も北条氏の執権の第六代、北條長時までの長丁場である。『平家物語』 だけでなく 『源氏物語』 をよむにも參考になるといふか、平安時代後半の復習にもなるし、『太平記』 の時代の準備にもなる。ただコンパクトだけに、はぶかれてゐるところも多いと思はなければならないので、重要なところでは 『史料綜覽』 や 『大日本史料』 を參考にしたい。

 

この數年間、ちよいと文學にかたよつてしまひ、歴史の勉強から遠ざかつてゐたけれど、かつて、「ぼくのライフワークは、〈六國史〉 につづく、『日本紀略』、『百錬抄』、『吾妻鏡』、『續史愚抄』、『後鏡』、『德川實記』 を讀むことだ」 と言つてしまつたてまへ、やはりこのへんで立ち返らないとまづいと思ふ。長生きするためにも大風呂敷をひろげるのはいいことだらう。 

 

夕食はおいしく食べられた。ナスと白身魚の素揚げがとくに美味しかつた。また、昨日まではデザートは毎晩イチゴだつたけれど、今日からはスイカにかはつた。最初のスイカにしては甘くて冷たくて、いよいよ夏が近づいてきたのだと感じた。 

 

*寫眞は、『百錬抄』 冒頭部分。十七巻よりなるが完本ではなく、卷一から卷三までが缺けてゐて、天皇紀の形をとる漢文の編年體で記されてゐる。 

それと、今晩のデザートと元氣な母 

 


 

 

六月二日(火)舊閏四月十一日(丙子) 曇天のちくもり

 

終日讀書。 

『百錬抄』 を讀んでゐたら、同じ時代を 『日本紀略』 ではどのやうに記されたゐたかを確認したくなり、そのうへ 『史料綜覽』 をも開いてみた。すると、要するに蟲眼鏡で見るやうにその時代が次々に擴大されてゐることがあらためて確認できた。『大日本史料』 ではさらに顯微鏡でのぞくやうであらうことがわかつてゐるので、確認することははぶいたけれど、おおざつぱに見るならば 『百錬抄』 を讀みながら、もう少し詳しく調べたいのであれば、『日本紀略』 か 『史料綜覽』。もつと詳しく特化して確認したいときには 『大日本史料』 をひもとくといふことなるであらう。それはそれこそ研究のためとなるので、『大日本史料』(註一) はときどき開くていどであるけれども、史料としては膨大な量である。といふのは、明治時代に刊行されはじめてから、いまだに完結されてゐないことでも察しがつく。 

ただ、『史料綜覽』(註二) だけが訓讀文にあらためられてゐるので、詳細な年表としても氣輕に利用ができる。ところが、だいぶ讀みすすんでゐたとおもつてゐたのに、抜き讀みはしてきたものの、途中でとまつてゐたことがわかり、『百錬抄』 に追ひつくために、よみかけの天徳三年(九五九年)、村上天皇の時代の後半から讀んだ。けれども、詳細だから頁も多くて時間がかかりさうだ。 

 

註一・・・『大日本史料』(だいにほんしりょう)は、一九〇一年(明治三十四年)から現在まで刊行が続けられている日本史の史料集である。六国史(『日本書紀』から『日本三代実録』まで)の後、国史の編纂事業が行われていないため、その欠落部分を埋めるべく編纂が始まった。平安時代の宇多天皇(八八七年即位)から江戸時代までを対象とし、歴史上の主要な出来事について年代順に項目を立て、典拠となる史料を列挙する。編集方針は、江戸時代に和学講談所(塙保己一が開設)で編纂された「史料」を基礎とした。 

註二・・・『史料綜覽』(しりょうそうらん) 大日本史料の全巻が刊行されるまでには相当の日時がかかると予想されたため、大日本史料の稿本(約五三三〇冊)と、その後採取した史料カードなどによって、事件の概要を示す綱文、典拠史料名を掲載しており、現在までに仁和三年(八八七年)から寛永十六年(一六三九年)までの分十七冊が刊行されている。『大日本史料』 の未刊行部分の時期を調べる際の手がかりになるほか、詳細な年表としても利用できる。尚、寛永十六年以降は、『德川實記』 が引き繼いだかたちで參考になる。 

 

以上、今日は今後の歴史のお勉強のために、復習をかねて、諸史料について確認をしてみた。『史料綜覽』 以外はすべて漢文だけれども、抵抗なく讀めるのは 「六國史」 を讀んできたからであらうし、返り點もついてゐる。むろん記載人物や行事や事件、その他の事柄や語句の意味する奥の世界についてみな讀みとれるわけではないけれども、時代の流れといふか、その時代にどのやうな事がおきてゐたかくらゐはわかるので、たいへん勉強になると思つてゐる。

 

そのわりには、平家物語』 も讀みすすみ、「二代の后」につづいて「額打論」まで讀むことができた。ただ、「義王(妓王)」の章は、百二十句本では「額打論」のあとにまはされてゐるのでこれからである。 

 

 

六月三日(水)舊閏四月十二日(丁丑) くもり

 

昨夜、このところ寢しなにちびりちびり讀んでゐた 『猫はどこ? 街歩き猫と出会う』 を讀み終へた。林丈二さんの本で、「路上観察学的猫の愉しみ方」を敎へてもらつた。 

つづいては、『路上観察 華の東海道五十三次』 を讀もうとおもふ。これも書庫に積んであつた本だが、これは、路上観察学会の面々(赤瀨川原平・藤森照信・南伸坊・林丈二・松田哲夫)の共作である。面白くないはづがない! と思ふ。 

それで、あらためて書庫を調べたら、『奥の細道 俳句でてくてく』 も見つかた。そしてもう一冊、『中山道俳句でぶらぶら』 も出てゐることがわかつたので、これはアマゾンに注文してしまつた。 

 

今日は、『平家物語』 を讀みすすみ、いよいよ 「義王(妓王)」 の章に入つた。 

『史料綜覽』 のはうは、『百錬抄』 に追ひつかない。なにせ追ひつくまでに十年ぶん、保元・平治の亂あたりまでだと二百年ぶんの出來事をたどつていかなければならない。 

よみはじめた天徳三年(九五九年)には小野道風が内裏の門の額を書いてゐる。以後たびたび目につくのが信濃(望月)や上野、甲斐、秩父等からの馬の貢ぎものを天覽に供する「駒牽」であり、「穢ニ依リテ」諸行事や祭が中止や延期になり、飢饉や災害、天變地異の記事も多い。 

注意してゐるのは人物の死去の記事である。以前にも書いたことがあるが、「死ス」、「卒ス」、「寂ス」、「薨ズ」、「崩御」と、死亡者の身分によつて呼び方が違ふところが嚴しい。清和源氏の祖・源經基(六孫王)の場合は「卒ス」だから、有名なわりには低い扱ひである。また、けつこうな人物が出家もしてゐる。有名なのが藤原高光(九六一年出家)である。道長の父・兼家の弟といふ高い身分であるにもかかはらずの出家で、みながおどろいたやうで、のちに 『多武峰少將物語』 の主人公となつて語り繼がれてゐる。これはすでに讀んだ。 

とくに興味深かつたのは、天徳四年(九六〇年)十月二日、「是日、検非違使竝ビニ源滿仲等ニ命ジテ、平將門ノ子ヲ搜索セシム」といふ記録である。平將門の亂がおきたのが九三五~九四〇年だから、二十年たつてもまだ探すほど、將門の恐ろしさが忘れられなかつたのだらうと思ふと痛快である。

 

こんな記録もあつた。それは、應和元年(九六一年)七月、「東大寺僧平崇、雨ノ賞ニ洩レタルヲ愁訴ス」といふものである。國をあげて「雨ヲラシム」、その祈りをになつたのに、自分だけその賞にあづかれなかつたのを訴へてゐるのである。がんばれと言ひたくなる。 

また、「死ノ穢アリ」とか、「觸穢ニ依リ」、「穢アリ、内裏ニ及ブ」、「犬死穢アリ」、さらには「天變怪異」とか、さては「怪異を禳ハシム」なんてあるとわくわくしてしまふ。だから、ときには、「是日、大極殿ニ怪異アルヲ以テ、讀經セシム」なんてのもあるわけで、好奇心をもち、想像力をはたらかせて讀んでいくと、年表を讀むのも樂しいのである。 

 

 

 

六月四日(木)舊閏四月十三日(戊寅) くもり

 

昨夜はがんばつて 『史料綜覽 卷一』 を讀みすすみ、安和の變(九六九年)に到達することができた。七十三頁ほど讀んで、やつと 『百錬抄』 まで追ひついたことになる。だがすでに 『百錬抄』 は正暦五年(九九四年)まで進んでゐるから、そこまでまだ二十五年(一四七頁)もある。もうひとがんばりして、それからは互ひに竝行して、比較參照しながら讀んでいけばいいだらう。だが、それでも保元・平治の時代までまだほど遠い。 

 

平家物語百二十句本』 も讀みすすみ、「きわう」 の章が終りさうである。ただ、講談社文庫の流布本系でいふなら 「妓王」の部分が、「百二十句本」では、「きわう」と「きわうしゆつけ」に分けられてゐるので、つづけて二つの章をよまなければならない。 

また、「百二十句本」は仮名書きだから、「きわう」だが、それを新潮社の新潮日本古典集成の「翻譯」では、「義王」としてゐる。頭註によれば、諸本によつて、妓王、祇王、義王と表記がことなつてゐることが記されてゐて、「義王」が理にかなつてゐるらしい。でも、ぼくとしては、「妓王」がいいやうな氣がする。

 

さういへば、《中仙道を歩く》旅の途中(二〇一五年七月廿三日~廿五日)、現在の滋賀縣野洲町に祇王井川といふ流れがあつた。野洲川から取水されて琵琶湖へ注ぐ、農業用水路として現在も使はれてゐる川で、傳説によれば、「『平家物語』 に登場する白拍子・祇王、祇女が、水不足になやむ故郷の人びとのために、当時の平清盛にたのんでつくらせたという」のである。 

太田南畝さんも、「むかし平相國入道にめされし祇王は野洲のものなり、今も祇王堰といふありときくにも、此のあたりなつかしく」、なんて書いてゐたことを思ひ出した。當時の 「近江の国江部荘(えべのしょう)」が、祇王、祇女の出身地と言はれてゐるのである。 

詳しくは、『 歴史紀行 五十三 中仙道を歩く(廿九) 』(愛知川宿~草津宿) 參照。

 

 

六月五日(金)舊閏四月十四日(己卯) 晴、蒸し暑い

 

今朝は齒科、先日發見された蟲齒を治療していただく。今回もまた若先生だつた。まあ、院長先生の代りで、要するにぼくは實驗臺であるのだらう。慈惠ではかつて若いマスク美人の女性研修醫に診てもらつたことがあり、毎回わくわくだつたけれども、ふりかへつてみると、あまり優秀ではなかつたやうな氣がする。

 

しばらくして家を出て、まづ上野に行く。晝は、どうしても牛たんが食べたかつたからだ。さいわひ〈ねぎし〉は開店してゐて、お客はぱらぱら。安心して食べられる距離感である。まあ、外國人客などにたよらなくとも、このていどでゆつたりと食事できる雰圍氣がとてもいい。

 

腹ごなしのために、つづいて、電車を乘り繼いで水道橋驛下車、白山通りを神保町交差點にむけて歩く。先日は營業してゐる古書店をさがすのがむずかしかつたけれども、けふはほとんどが再開。まづ、日本書房、つづいて西秋書店に友愛書房、そのほかの店もおざなりでなくのぞきつつ、靖國通りをにしひがし、とうぜん八木書店にも顔を出し、二人の青年店員にあいさつをかはしたころは、だいぶ腹をすかせることができた。

 


 

新本は三省堂と東京堂。ころあひをみはからつて、〈かねいち〉さんのうな重を少しはやめだがいただいた。じつに美味かつた。 

ちなみにこのときまで一册も買つてはゐなかつたが、〈かねいち〉さんの店を出て、東京堂の裏側の路地にある手塚書房をのぞいたら、といふか道路上のワゴンのなかに 『新潮古典文学アルバム 太平記』 を見つけたので求めてしまつた。なんと一〇〇圓であつた。この店は、演劇・音樂・美術専門で、たまにはのぞくことにしてゐる。 

これで、今日の神保町探索は終了。たつた一〇〇圓の出費だつたが、いや食費はたいへんオーバーしたが大滿足! 半藏門線と東武鐵道を乘り繼いで牛田・関屋乘り換へで歸路につく。歩數は、八六九〇歩。

さうだ、友愛書房ではバルトの教義学が目についたな。和解論は井上先生の翻譯だつたのではなかつたか。惹かれた。だが、もうぼくには齒がたたなくなつてゐるかも知れないとおもふととても恐い。

 


 

『史料綜覽 卷一』 を讀みすすみ、正暦五年(九九四年)まで讀み進んでゐた 『百錬抄』 に追ひつくことができたけれども、『史料綜覽』 をさらに進むことにした。讀みやすいこととともに分量が膨大なので、なるべく 『平家物語』 の時代に近づいておきたいからだ。 

また、『平家物語百二十句本』 も讀みすすみ、「きわう」 の章が終つて、「てんかのりあひ」 に入る。「きわう」 の章は、「きわうしゆつけ」をふくむと、はなしとしても長く、「『諸行無常 盛者必衰』を主題とした、平家物語の一縮図ともいうべき意味を見せている」と頭註にあるやうに、たしかに、一篇のドラマとしてもおもしろい。ほとけ御せんが、きわう、きによ、とちの三人にせつせつと語る佛敎の敎へは、四人が往生をとげたといふ結論に十分説得力を與へてゐる。

 

アマゾンで注文した、路上観察学会の 『中山道俳句でぶらぶら』 がとどく。 

 

 

六月一日~五日 「讀書の旅」 ・・・』は和本及び變體假名・漢文)

 

二日 林丈二著 『猫はどこ? 街歩き猫と出会う』 (廣済堂出版) 

 

 

六月に買ひ求めた本

 

五日 路上観察学会 『中山道俳句でぶらぶら』 (太田出版) 

五日 大森北義編集 『新潮古典文学アルバム 太平記』 (新潮社)