六月十一日(木)舊閏四月廿日(乙酉) 曇りのち雨、風強し

 

今朝、西宮の神田君からの電話でおこされた。ペースメーカーのお世話になつてゐるぼくは、携帶電話はいつもはなれた場所においてあるので、メールならあとでよめばよいし、電話であれば出るか、あるいはそのままにしておくしかない。一度切れたけれど、再びかかつてきたので出てみると神田君であつた。 

用件は、高森先生がなくなられて一年がすぎ、「高森昭先生の思ひ出集」を作りたいので原稿を書いてほしいといふものだつた。むろん個人的な思ひ出しかないが、依賴された瞬間にいくつものことが走馬燈のやうにあたまのなかをかけめぐつた。

 

いちばんの思ひ出といふか、忘れられない感謝は、妻が先生主催の聖書研究會に出席したそのおかげで、洗禮をうける決心をしたことだ。たうじ、關學の神學生だつたにもかかはらず、その妻がまだ洗禮をうけてゐなかつたことは、どうも話題にのぼつてゐたらしいのである。ぼくはそのことで妻にせまつたことはなかつたけれど、一九七三年十二月二十三日、仁川敎會でおこなはれたクリスマス禮拜における洗禮式を忘れはしない。

 

そもそも、神田健次君とともに關學の神學研究科に入學したのは、ただ靑學神學科を追ひ出されたからだけではなく、關學に高森先生がをられたからであつた。いや、もう少しさかのぼると、明學大で學んでゐたときに、留學先のスイス・チューリヒから歸國されたばかりの先生に基督敎學生會の顧問をお願ひしたことがあり、修養會といふと先生にお出まし願つてさまざまなことをお敎へ願つたといふ因縁にもよるのである。 

だから、高森先生の思ひ出といふと、ぼくには明學時代の先生がもつとも鮮明に浮かんでしまふ。御殿場の東山莊をはじめ、淸里の淸泉寮、天城山莊、代々木オリンピック記念靑少年總合センター、中輕井澤鹽澤の民宿等々でのお姿を。 

さうだ、一九六九年九月には、明學にも機動隊が入り、ぼくは大學本館入口のロビーでハンガーストライキなどして、あわただしかつたけれど、その年のクリスマスには、先生をかこんで「コンパ」などもおこなつてゐる。 

このあたりからは、しかし、ぼく自身が靑學への進學に奔走し、先生とは次第に疎遠になつてしまつたことはまことに申し譯なかつた。けれど、まさか、高森昭先生がその後轉任された關學神學部へ、しかも明學と靑學をともに歩んだ神田君と一緒に進まなければならなくなつたとは、やはりお導きとしか言ひやうがない。

 


 

といふわけで、午前中いつぱいかかつて原稿を書いてしまひ、ひるからは猫たちを抱いてソファーで讀書、『路上観察 華の東海道五十三次』 を見ながらうとうとしてすごす。 

それでもどうにか、『上東門院の系譜とその周辺』 をよみつづけた。彰子さんが一條天皇のもとに入内したころから、三條、後一條、後朱雀、後冷泉、そして後三條から白河天皇誕生までの輪郭が見えてきた。中心人物は上東門院彰子さんとその系譜だけれども、著者は、中宮定子さんとその一族にだいぶ肩入れしてをり、ぼくとしては好感がもてた。 

 

 

六月十二日(金)舊閏四月廿一日(丙戌) 曇天時々日差し、のち雨

 

酒井みさを著 『上東門院の系譜とその周辺』 讀了。 

道長に幸ひをもたらしたのは、道長の姉の詮子が一條天皇の母であつたことによることが大きい(父は圓融天皇)。そのことによつて、道長は長女・彰子を一條天皇の后とすることができ、生まれてくる皇子たちに彰子の妹たちをつぎつぎに嫁がせた。つづく後一條、後朱雀、後冷泉の天皇はすべて道長の孫たちであり、道長はその外戚として權力をほしいままにしたわけであつた。

 

ところが、道長の外戚體制が崩れていく原因となつたのが、道長の息子たちの爭ひであつた。道長には、「倫子腹・明子腹合せて十五名」の子女があつたが、明子の子たちは、倫子の子たちとはあきらかに差別されて昇進の差が見られ、明子の息子たちはだいたいが穏やかな人物だけれども、一人、能信(よしのぶ)だけが、本書によれば、「小賢しく腹黒い」と指摘してゐる。だがこれは見方によつてであつて、能信がその後の歴史にはたした役割は決して小さなものではなかつたと思はれるのである。 

ちなみに、道長が外戚となつた天皇をまうけたのはすべて「倫子腹」の娘たちであつた。

 

そこで思ひ出したのは、三年前によんだ、永井路子さんの 『大鏡 シリーズ古典を読む』(岩波書店) である。永井路子さんは、「『大鏡』 の筆者が、倫子系より明子系に好意的な立場にあることが窺われるような気がする」、と書き、 

「明子所生の彼(能信)は倫子系の賴通、敎通への対抗意識が旺盛で、禎子所生の尊仁(後の後三條で、藤原氏の外戚をもたない)の東宮擁立に成功し、さらに尊仁の春宮大夫となった。後に後三條に娘茂子(実は猶子)を入れるが、その所生の皇子貞仁が次の天皇白河である。いわば、後三條と敎通の対立は、天皇と藤原氏の決定的な戦いではなく、倫子系の教通と明子系の能信の対立なのだ」 

そして、「後三條以降の時代を、むしろ作者は能信系の繁栄と見ているようである」と、だから、「筆者を能信系に好意的な人間と見ることも可能である」とまで言つてゐるのである。かうして、藤原氏の外戚體制が崩されたことは、見方によつては、藤原氏が仕掛けた安和の變で左遷させられた明子の父、源高明一族の復讐がここに實現したと言へないこともない。 

本書の本筋とははなれたが、以上のことを學びとることができた貴重な一册であつた。 

それにしても、これからさらに、『史料綜覽 卷二 平安時代之二』 を讀んでいくに際して、どこに目をつけ、また氣をつけてよんでいつたらよいのかを敎へていただいた。 

 

また今日は、『源氏物語〈藤袴〉』 をよみつづけた。が、なんといつても難しい。註釋書の助けがなければたうてい讀めやしない。ただ内容的には、『史料綜覽』 の卷一・卷二の時代を反映してゐるので、そのよすがとはなるけれど、はやく 『平家物語』 に専心したい。 

 

 

六月十三日(土)舊閏四月廿二日(丁亥・下弦) 雨

 

『源氏物語〈藤袴〉』 讀了。靑表紙本で四三頁。後半の三分の二は一氣に讀んでしまつたが、どうもすんなりと理解できなかつた。まあ、玉鬘の意中がはつきりと示されないところで、物語のなかの男たちとともに讀むこちらのはうも振り回された感じだつた。これで一區切りつけようとしたけれど、はなしが繼續するやうなので、氣持のさめないうちに、〈眞木柱〉に突入する。あと三册! 

いちいち揚げ足を取るやうなことを言ふつもりはないが、〈眞木柱〉は、〈藤袴〉とくらべると筆が細くてよみやすい。いつたいに定家は何人の子女に命じて書き寫させてゐたのだらう。その帖ごとに用ゐられる變體假名の字母も異なつてゐる。 

 

ここで 『史料綜覽』 にもどるつもりでゐたら、ソファーのうしろの本棚のかたすみに、繁田信一さんの本が何册も目にとまつた。何年も前に 『殴り合う貴族たち』 はよんでゐたが、つづく 『天皇たちの孤独 玉座から見た王朝時代』 と 『王朝貴族の悪だくみ―清少納言、危機一髪』、その他は未讀のままであつた。この際、『殴り合う貴族たち』 は再讀になるけれども、道長の時代を整理するためにもこの三册をよまうとおもつた。 

いやあ、それにしても讀むべき參考書が多すぎる。

 

 

六月十四日(日)舊閏四月廿三日(戊子) 雨のち曇天

 

今朝いやにはやく目が覺めてしまつたので、久しぶりにラヂオをつけた。すると、五時五五分から、NHK第二放送で、例のなつかしい木琴の音が響いてきた。いや、シロホンとかマリンバといふのかも知れないが、たつた五分間のみじかい放送開始の合圖ともいへるこの單調なメロディーは、ぼくが子どものころからながれてゐて、おそらく繼續してゐる番組(?)としては他に追隨をゆるさないのではないか。いつ聞いても懐かしい。 

それが終つたかと思ふと、つづいて〈古典講読〉の時間で、なんと、今朝は、『更級日記』 の、作者が 『源氏物語』 を得てよみふけるといふ場面であつた。おはなしは島内景二さん、朗読は加賀美幸子アナウンサーといふ最強メンバーで、よく理解できて樂しめた。 

 

『殴り合う貴族たち』 を讀みはじめたら、まあよくわかること、やはり再讀はしてみるものだ。とくに人物關係がわかつてきたところだから、よく理解できる。 

しかし、平安貴族たちの横暴にはあきれてしまふ。『源氏物語』 の世界が平安時代だと思つたら大間違ひであることをあらためて認識させられる。 

それらの證言はみな藤原實資の日記、『小右記』(註) によるので、その原文、全十一册を出してきていちいちあたつてみたが、返り點のない漢文なので、かなり難しい。だがこのときのために入手してあつたのだから、できるだけ自分で解讀してみた。 

 

註・・・『大日本古記録 小右記』 (東京大學史料編纂所編 岩波書店) 

『小右記』(しょうゆうき)は、平安中期の公卿、小野宮右大臣藤原實資(ふじわらのさねすけ)の日記。天元五年(九八二年)から長元五年(一〇三二年)までの記事が伝わるが、中間の欠逸が少なくない。内容は藤原氏最盛期の政治・社会・儀式などを中心に、公私両面にわたり詳細な記事を伝えている。《権記(ごんき)》、《御堂関白記(みどうかんぱくき)》、《左経記(さけいき)》と時期が並行し、相互に対照することにより得るところが多いが、とりわけ《御堂関白記》の記主藤原道長の言動への鋭い批判が随所に見え、権貴におもねることをいさぎよしとしない実資の性格をよく表している。当時の宮廷の実情を知るための重要な史料。 

 

また、『源氏物語〈眞木柱〉』 をよみつづけた。 

 

 

六月十五日(月)舊閏四月廿四日(己丑) 晴、眞夏日

 

そろそろカラダが運動を要求しだしたやうなので、散歩にでた。ガイドブックに從ふ東京散歩はまだ避けたはうがよささうなので、あとはといへば、もう神保町しかない。古本市が各地で開催されるやうになれば、もう少し範圍もひろがるのだらうけれども、かうしてみるとぼくの行動範圍は狹いのである。なんだかちよいとさびしい氣がした。とにかく、前回と同樣に、日暮里驛、秋葉原驛經由で水道橋驛から神保町に向かつて白山通りを歩いた。そして靖國通りをにしひがし、これも前回と同樣。

 

けふは、〈@ワンダー〉で、以下の四册がまとまつて見つかつた。逢坂さんの 『平蔵狩り』 は、先日南柏で求めた 『平藏の首』 シリーズ第二彈であるし、深沢七郎さんと鷲田さんの二册も、ぼくにとつて喫緊のテーマであるし、得るべくして手に入つたといふところだらう。 

逢坂 剛著 『平蔵狩り』 (文春文庫) 

深沢七郎著 『生きているのはひまつぶし』 (光文社文庫)  

鷲田清一著 『老いの空間』 (岩波現代文庫)  

梶山季之著 『賴山陽 雲か山か』 (光文社時代小説文庫) 

 

夕方までぶらぶら神ぶらして、夕食は、何ヶ月かぶりにアルカサールで和風ステーキをいただいた。今日の歩數は、ちやうど、七〇〇〇歩であつた。 

 

*求めた文庫本と、まだ二階のブックカフェが開けない〈@ワンダー〉、それに、アルカサールの和風ステーキ 

 


  

路上観察学会 『路上観察 華の東海道五十三次』(文春文庫ビジュアル版) 讀了。といふより觀了といふべきであらう。なにしろビジュアル版なのである。おもしろ寫眞滿載で、散歩の樂しみ方を敎へてくれてゐるやうである。 

日光街道を歩いたついでに中仙道を歩くはめになつたが、東海道を歩く氣にはならなかつたし、現在もそのつもりはないが、それでも、「路上観察学会」會員たち(赤瀨川原平・藤森照信・南伸坊・林丈二・松田哲夫諸氏)のとらへた映像と解説には興味津々! 面白かつた。つづいて、寫眞に俳句を添へての、「奥の細道」と「中仙道」の旅である。樂しみだ。 

 

 

六月一日~十五日 「讀書の旅」 ・・・』は和本及び變體假名・漢文)

 

二日 林丈二著 『猫はどこ? 街歩き猫と出会う』 (廣済堂出版) 

八日 東京大學史料編纂所編纂 『史料綜覽卷一 平安時代之一』 (東京大學出版會) 

八日 五味文彦著 『平家物語、史と説話』(平凡社選書) のうち、「第三章 記録と史書のはざま」 

十日 山中裕著 『平安人物史』(東京大學出版會) のうち、「第五章 敦康親王」と「第六章 敦明親王」 

十二日 酒井みさを著 『上東門院の系譜とその周辺』 (白帝社) 

十三日 紫式部著 『源氏物語三十〈藤袴〉』 (靑表紙本 新典社) 

十五日 路上観察学会 『路上観察 華の東海道五十三次』 (文春文庫ビジュアル版) 

 

 

六月に買ひ求めた本

 

五日 路上観察学会 『中山道俳句でぶらぶら』 (太田出版) 

五日 大森北義編集 『太平記 (新潮古典文学アルバム)』 (新潮社) 

九日 阿井景子著 『花千日の紅なく 南方熊楠と妻』 (集英社文庫) 

九日 逢坂剛著 『平藏の首』 (文春文庫) 

同 B・フラー著 『宇宙船地球号操縦マニュアル』 (ちくま学芸文庫) 

同 寺田寅彦著 『天災と国防』 (講談社学芸文庫) 

十日 路上観察学会 『昭和の東京 路上観察者の記録』 (ビジネス社) 

十五日 逢坂 剛著 『平蔵狩り』 (文春文庫) 

同 深沢七郎著 『生きているのはひまつぶし』 (光文社文庫) 

同 鷲田清一著 『老いの空間』 (岩波現代文庫) 

同 梶山季之著 『賴山陽 雲か山か』 (光文社時代小説文庫)