二〇二二年正月(睦月)元日(土)舊暦十一月廿九(甲寅) 晴

朝食はお雜煮。酢だこがうまい。

終日猫たちをひざに讀書。法然 『圓光大師法語集』(和本) と 小島政二郎 『私の好きな古典 樋口一葉・芭蕉』 をよみすすむ。

 

正月二日(日)舊暦十一月卅日(乙卯) 晴

朝から、テレビで箱根驛傳をみる。猫たちを愛撫しながら時間をつぶすのにはもつてこいだつた。

小島政二郎 『私の好きな古典 樋口一葉・芭蕉』(文化出版局) 讀了。

「芭蕉」については、いままでによんだ芭蕉論とは毛色がことなり、といふか著者の芭蕉にたいする切實で眞劍な思ひが表出されてゐて、氣がぬけなかつた。

「これまでの伝記は、人名辞典の中に見出されるような伝記で、芸術家の伝記ではない。芸術家の伝記は、どういう意味ででも、彼の精神の発展史でなければ意味をなさない」

出だしから、政二郎さん、本氣なのである。しかし、ぼくには、「悟るまでの芭蕉の句─」と、「悟りを切り開いた頃の句─」と、「完成したとき─」の句をならべられても、殘念ながら、それらがどう違ふのかわからない。それで、一茶をよむことにした。

 

正月三日(月)舊暦十二月一日(丙辰・新月) 晴

今朝も酢だこが美味しかつた。年末年始、食べては寢てばかりゐたので、體重がふえてしまつた。そろそろ動き出さなければと思ひつつ、今日も箱根驛傳。復路である。

讀書は、一茶にかんして、黄色瑞華著 『一茶の世界 親鸞教徒の文学』(高文堂出版) を一氣によむ。著者は 「この小册は、一茶とその文学探求過程の記録であって、真宗教学の書ではない。したがって、親鸞教布教の意図もない」 と言つてゐるけれど、まあ、「親鸞教徒一茶、その人と作品を解明」 しようとしてか、なんだか小難しかつた。  

 

正月四日(火)舊暦十二月二日(丁巳) 晴、寒風

新年初の外出、といふか散歩にでる。行先は柏。ブックオフと太平書林を探索し、高島屋ステーションモールで晝食。歸路、松戸のブックオフにも寄る。収穫は文庫本三册。今日の歩數は六二〇〇歩。

大谷弘至編 『ビギナーズ・クラシックス日本の古典 小林一茶』(角川ソフィア文庫) を持ち歩いてよむ。ビギナーズのためとはいひながら、「一茶を近代俳人としてとらえ直し、俳句の歴史にも新たな視点を与える」といふすぐれた入門書のやうである。

 

正月五日(水)舊暦十二月三日(戊午・小寒) 晴、寒

新年初の通院。檢査結果、全体的に變化がなかつたが、一點、氣にかかつたのは、BNP値が586もあつたことだ。食べ過ぎで鹽分の取りすぎが原因だつたかも知れない。さらに氣をつけたい。

晝食は、病院の松壽庵でかき揚げせいろ。

歸路、神保町へ出、靖國通り沿ひ、白山通りの西側の店を見て歩いた。それから、三田線で日比谷驛乗り換へで築地驛。再び聖路加病院にマキさんを見舞ふ。

 

正月六日(木)舊暦十二月四日(己未) ひるから雪

終日猫たちとともに讀書。

法然の 『圓光大師法語集』、『ビギナーズ・クラシックス日本の古典 小林一茶』、それに、加藤 周一 『日本文学史序説〈上〉』(ちくま学芸文庫) の〈第四章 再び転換期〉を一氣によむ。内容は、「二重政府と文化」、「仏教の『宗教改革』」、「禅について」、「貴族の反応」、「『平家物語』と『沙石集』」 で、じつによみ應へがあり、よき復習になつた。

『平家物語 百二十句本』(古典文庫) は、〈第七十句 平家一門都落ち〉 を繼読中。

 

正月七日(金)舊暦十二月五日(庚申) 晴

今日も猫たちとともに讀書。

大谷弘至編 『ビギナーズ・クラシックス日本の古典 小林一茶』(角川ソフィア文庫) 讀了。たしかに、「他の追随を許さない一茶論」であつた。ぼくとしては、一茶の俳句はかれの人生といふかかれが直面してゐる生活場面と切り離しては理解できないことがわかつた。それにたいして、「古典文学」に賴らなければわからないのが、王朝時代を通じて、芭蕉や蕪村までの作品であつた。この違ひは重大である。 

【目次】・・・一、小林一茶の生涯 二、よく知られた一茶 三、修養時代 四、父の死 五、江戸での一茶(本所相生町時代) 六、江戸での一茶(『七番日記』の時代) 七、信濃での生活 八、『おらが春』の世界 九、晩年 

*一茶はだいの猫好きだつたやうだ!


 正月八日(土)舊暦十二月六日(辛酉) 晴

今日も古本散歩。神田の古書會館と高圓寺の古書會館の古本市をはしごした。さらに神保町古書店街にもどり、水道橋驛から白山通りを靖國通りに向つて歩き、日本書房と西秋書店をたずね、靖國通り沿ひの東側の店を見て歩いた。

晝食は“誠鮨”のにぎり、夕食は“アルカサール”の和風ステーキ。それぞれ新年初。

今日の収穫・・・伴蒿蹊 『近世畸人傳 一』(和本) のほか、一茶に關するもの、大谷弘至 『楽しい孤独 小林一茶はなぜ辞世の句を詠まなかつたのか』(中公新書ラクレ)、吉田美和子 『一茶無頼』(信濃毎日新聞社) など。

今日の歩數・・・七七六〇歩

 

正月九日(日)舊暦十二月七日(壬戌) 晴のち曇り

今日も終日猫たちをひざに讀書。

久しぶりに、ローレンス・ブロック著 『死への祈り』(二見文庫) をよみはじめる。

 

正月十日(月)舊暦十二月八日(癸亥・上弦) 曇天

午前中、NHKBSで、“ドラマ・おらが春・小林一茶の涙と笑いの生涯”をみた。一茶には西田敏行が扮し、まあさまになつてゐたとおもふ。面白かつた。

 

正月十一日(火)舊暦十二月九日(甲子) 雨

朝、齒科へ通院。クリーニングとともに入れ齒を調整していただく。

雨降るなか、晝食のために外出。驛裏の“人と木”で、天せいろをいただく。

ローレンス・ブロック著 『死への祈り』、マット・スカダー・シリーズの第十五作になるが、面白さは變らない。

 

正月十二日(水)舊暦十二月十日(乙丑) 晴

今日もジュン散歩に出た。北総線の新鎌ヶ谷驛下車、アクロスモール新鎌ヶ谷古本市が明日まで開催中。まあ、それほど期待はしなかつたけれど、案の定収獲は文庫本と新書本一册づつ。しかも、その一册は、杉浦明平著 『崋山探求』(岩波同時代ライブラリー) で、歸宅後確認したら、すでに單行本で持つてゐる本だつた。

つづいて東武線で柏に出、イトーヨーカドーのなかにあるブックオフとキャンドゥを訪ね、黑飴とドライフルーツなどをもとめる。

晝食は、玄品柏店で、ランチサービスがあるといふので、その正午膳をいただいた。美味しすぎて、これを病みつきといふのだらうか。 

ローレンス・ブロック著 『死への祈り』(二見文庫) 讀了。だが、讀後感はいささか不完全燃燒氣味。

 

正月十三日(木)舊暦十二月十一日(丙寅) 晴

大谷弘至著 『楽しい孤独 小林一茶はなぜ辞世の句を詠まなかつたのか』 をよみかけてゐたが、杉浦明平著 『崋山探求』 を目の前にしたのも偶然とは思へないので、よみはじめたら引き込まれた。たしかに、著者の 「『小説渡辺崋山』 取材のための苦労ばなしや旅行記など」なので、興味津々である。

『平家物語 百二十句本』(古典文庫)、〈第七十句 平家一門都落ち〉 までをよみ終り、卷第八〈第七十一句 四の宮即位〉 にはいる。

アマゾンに注文した 栗田勇・編 『思想読本 一遍』(法藏館) がとどく。

 

正月十四日(金)舊暦十二月十二日(丁卯) 晴

今日も古本散歩。神田の古書會館では、今回いい本が多くて迷つたけれど、法然と親鸞關係の和本四册(『法然上人二枚起請文之來由』、聖覺法印 『大原問答假名繪鈔 上下』など)と、明治三十九年に刊行された 『法然上人全集』 を求めてしまつた。これは重さが一・五キロもあり、文庫本を原則とする昨年四月以降はじめての大型本だ!

おひるは、御茶ノ水驛の誠鮨でいただき、折り返し、千代田線・常磐線經由、馬橋驛乘り換へで流山を訪ねた。下車驛は流鐵線・流山驛のひとつ手前の平和台で、目的の “一茶双樹記念館” はそこから近かつた。以前は流山驛から歩いたので遠かつた記憶があるが、平和台驛からはイトーヨーカドーを通りぬけ、ケーズデンキのわきを往くとすぐ。前はどうだつたか忘れたけれど、入場は無料で自由に見學できた。

やつてきた目的は、一茶に關する參考書を確認することだつたが、あらためて双樹亭と一茶庵の建物のすばらしさに感動した。とくに一茶庵は書齋にはいい。

貝原益軒の 『養生訓』、〈卷第一 総論上〉 がよみおはり、〈卷第二 総論下〉 に入る。 

今日の歩數・・・七二八〇歩 

*一茶双樹記念館


 

正月十五日(土)舊暦十二月十三日(戊辰) 晴のちくもり

今日も終日猫たちをひざに讀書。といつてもあれこれつまみ讀み。法然さんをよんでは、益軒さん、一茶に崋山に 『平家』 へと。變體假名が自然によめるやうになつてきたかな、と自負もまじる。それに昨日もとめた 『老境まんが』(ちくま文庫) が面白い。

 

正月十六日(日)舊暦十二月十四日(己巳) 晴

陽のあたる窓べで、今日はいつもより長時間机にむかつて讀書。山田英生編 『老境まんが』(ちくま文庫) と 杉浦明平 『崋山探求』(岩波同時代ライブラリー) 讀了。

内容一・・・諦念、介護……、老いをテーマにしたマンガ集。水木しげる、手塚治虫、白土三平、つげ義春、近藤ようこ、高野文子、岡野雄一らを収録。

内容二・・・三河国田原藩士崋山渡辺登。蛮社の獄に連座、天保12年自刃。この特異な画家・思想家・失意の運動家、渡辺崋山をめぐる事件と人物の史料から、同郷の著者が天保時代に現代を読み込む長編歴史エッセイ。

また、崋山關連で横道し、森銑三さんの 『西鶴一家言』(河出書房新社) の冒頭、「私の西鶴研究序説」 をよんだ。「西鶴の真作である浮世草子は 『好色一代男』 だけであって、それ以外のいわゆる西鶴本は、みんな西鶴以外の者が書いたという説です。これはいうまでもなく、現在の国文学界の通説とまったく違う、革命的な説です」 と丸谷才一さんが書いてをられるやうに、學界にたいしてまるでけんか腰!

久しぶりに森銑三さんの啖呵にふれ、元氣をもらつた。啖呵といへば同樣に氣を吐いてをられるのが、小松英雄さんの日本古典文學研究、草野隆さんの百人一首研究〔『百人一首の謎を解く』(新潮新書)〕、それに錦仁さんの菅江眞澄研究と柳田國男批判〔『真澄研究 十三号』 (平二十一年三月 秋田県立博物館 菅江真澄資料センター)〕。

みな、既存の學界をむこうにまはしての孤軍奮闘のかたばかり。とくに、錦仁さんなんかは恐ろしいほど。以下、二〇一八年十二月六日の日記より引用する─。

 

『真澄研究 十三号』 が届きまして、錦先生の講演記録を讀みはじめたらとまらなくなつてしまひました。錦仁先生の講演記録の題名は、「ほんとうの眞澄へ─藩主と歌枕と地誌─」 といふもので、ぼくの疑問に應へてくれた内容だつたからです。

十一月二十七日の日記で、ぼくは、東洋文庫の 『菅江眞澄遊覧記』 には眞澄の和歌の大部分が省略されてゐるといふことを書きました。それは、變體假名の原文 『伊那の中路』 を讀んでゐて氣がついたことでした。

さうしたら、錦先生、「内田武志・宮本常一編訳 『菅江眞澄遊覧記』(東洋文庫) は、眞澄の旅日記・日誌・随筆の類から、和歌に関する記事および眞澄の詠歌を抜き去って現代語訳してしまった。これがいかに眞澄の本質を理解しないものであるか、批判・検討されるべきである」 と書いてをられ、そんなことをある學會で話したら、「ある大学の先生に 『十五年前だったら殺されたぞ』」 と言はれたといふことまで語つてゐます。

さうだつたのです。菅江眞澄は、なまじひに柳田國男に見いだされて有名になつたのはいいけれども、その親分の言ひやうに抑へ込まれて、菅江眞澄の本質への接近を閉ざしてゐたといふことを錦先生はおつしやつてゐるのであります。 

森銑三さんも、小松英雄さんも、草野隆さんも、そして錦先生もみな怠惰な無風状態におかれた學界の壓倒的な闇の沈黙に抗して聲をあげてをられる。見習ひたいけれど、せめて應援だけでもしたい。

 

正月十七日(月)舊暦十二月十五日(庚午) 晴

古本散歩。今日は、土浦の “つちうら古書倶楽部” まで遠征。目ぼしい物はなかつたけれど、小册子ながら、伊藤晃著 『一茶と下総俳壇』(ニーズ) が掘出し物といへやうか。

歸路、柏驛で下車。だが、訪ねた太平書林さんは休みだつた。

今日の歩數・・・四七七〇歩 

 

正月十八日(火)舊暦十二月十六日(辛未・滿月) 晴

大谷弘至 『楽しい孤独 小林一茶はなぜ辞世の句を詠まなかつたのか』(中公新書ラクレ) 讀了。

内容・・・本書は、一茶の生涯をたどり、彼が遺した俳句を味わいながら、つらいことばかりが多い人生と向き合い、世間という荒波の中でどのように暮らしていていけばよいのか、生きるヒントを探る旅のガイドブックのようなものなのかもしれません。 

午後、NHKBSで、“歴史ミステリー・京都・千年藏 大原・勝林院” をみた。勝林院といへば、法然さんが大原問答をおこなつたところで、先日、『大原問答假名繪鈔 上下』(和本) を求めたばかりだ。興味深くみたら、勝林院で問答が行はれたわけがわかつた。

勝林院は、そもそも圓仁(慈覺大師)によって開かれたがその後荒廢し、藤原道長の室倫子の弟である寂源(藤原時叙)が復興して勝林院を建立したとされる。寂源は萬人にひらかれた信仰を敎へたため、叡山大衆によつて迫害されたいきさつもある。そのさい、寂源が、なんと、法然に先立つて、すでに大原問答をおこなつてゐたのであつた。寛仁四年(一〇二〇年)、寂源が延暦寺の僧である覺超と遍救を招請して、勝林院の本堂で法華八講を開いたといふのである。

法然さんの大原問答は、この先例になぞらへておこなはれたのであらう。 

大原問答・・・文治二年(一一八六年)、顕真の招請により、勝林院で法然が浄土宗義について明遍、証真、貞慶、智海、重源らと一昼夜にわたっての問答が行われた。これを「大原問答」という。顕真らが法然に十二の難問を投げかけ、法然はそれらに対して念仏によって極楽浄土へ往生できることをはっきりと示した。その時に、本尊の阿弥陀如来が光を放って法然の主張が正しいことを証明してみせたという。そのため本堂も「証拠堂」と呼ばれるようになった。念仏すれば誰でも極楽浄土へ往生できることを知った聴衆たちは大変喜び、三日三晩、断えることなく念仏を唱え続けた。なかでも重源は翌日には自らを「南無阿弥陀仏」と号して法然に師事している。

なんと、平家が壇ノ浦で滅亡したその翌年のことである。平氏と源氏。こちらは舊佛敎と新佛敎。こちらも勝敗は決まつたやうである。

 

正月十九日(水)舊暦十二月十七日(壬申) 晴

藥が紛失したので、慈惠大病院まで處方箋をもらいにでかけた。新型コロナの感染者がまたまた増えはじめて心配だつたけれど、なくなつたのが利尿藥だつたので、ひととの接觸に氣をつけながら行つてきた。それでも歸路神保町により、久しぶりに “成光” のラーメンをいただくことができた。

歸宅すると、純子さんが來られてゐて、妻の施術がはじまつてゐた。ぼくはそのあとやつていただき、氣持よかつた。

今日の歩數・・・五〇二〇歩

*今日の新型コロナウイルスの國内感染者數は初めて四萬人を超え、東京も新規感染者は過去最多の七三七七人。

 

正月廿日(木)舊暦十二月十八日(癸酉・大寒) 晴

入れ齒が齒ぐきにあたつて痛いので、食べるのに苦勞する。

純子さんの勧めもあつて、水道の蛇口に淨水器を取り付けた。地下に埋められた水道管が劣化して、流れる水にさまざまな有害物質が混入し、からだにも影響してゐるやうだといふのである。たしかにさう思ふ。

*今日の新型コロナウイルスの國内感染者數は四六一九七人、東京の新規感染者は八六三八人 

 


 

正月廿一日(金)舊暦十二月十九日(甲戌) 晴

昨夜、『一茶遺稿 父の終焉日記』(岩波文庫) をよむ。

『大原問答假名繪鈔』 をよみはじめたけれど、よめることはよめても、佛敎用語が多くて意味が把握できない。まことに齒がゆい。

齒がゆいといへば、入れ齒が合はなくなつてきたのだらうが、差し齒あとの齒ぐきに入れ齒があたつて痛くてたまらん。その差し齒あとの數本の齒をどうしたらいいか、思ひ切つて別の齒科醫院にかかつてみようかと思ふ。

こんなコロナ状況だが、神田古書會館の古本市が開催されてゐるので訪ねてみた。さすがに混雑するほどではなく、のんびりみて回つて、文庫本數册を求めた。

今日の歩數・・・五四九〇歩

*今日の新型コロナウイルスの國内感染者數は四九八五四人、東京の新規感染者は九六九九人

 

正月廿二日(土)舊暦十二月廿日(乙亥) 晴

陽のあたる窓べで、今日も机にむかつて讀書。法然さんの 『圓光大師法語集』 をよみすすむ。

昨夜、小池直太朗編 『一茶日記抄』(萩原朝陽館 初版大正十年刊) をよみ終る。

*今日の新型コロナウイルスの國内感染者數は五四五七六人、東京の新規感染者は一一二二七人と、過去最多を更新 

 

正月廿三日(日)舊暦十二月廿一日(丙子) 晴のち曇り

陽のあたる窓べで、猫たちにまとはりつかれながら、今日も机の前で讀書。

法然さんの 『圓光大師法語集 乾』(和本) 讀了。「淨土宗略抄」、「念佛往生要義抄」、「十二箇條問答」、「東大寺問答」 その他、熊谷入道(蓮生)や津戸三郎入道らへの「御返事」、それに有名な 「七箇條起請文」 など盛りだくさんの内容だつた。つづいて 「坤」 の卷に入る。

また、伊藤滋彌 『一茶第二のふるさと─松戸馬橋と流山』(著者自作の册子)。これは流山探訪には最適!

さらに、最近求めた無住の 『沙石集』(十卷六册 和本) をひろげてみた。本文は漢字片假名交り文であり、平假名の變體假名よりはよみやすいけれど、味氣ない氣がする。もっとも、文庫本でよんでしまふよりは樂しいし、《變體假名で讀む日本古典文學》 にも抵觸せず。

といふのも、雄山閣文庫(昭和十三年刊)の 『沙石集』 の解説にひかれたからだ。

「一二〇〇年を中心にその前後百年間は、日本宗敎史として最も精彩ある時期である。法然、親鸞、榮西、道元、日蓮等巨匠相ついで輩出、各々堂々と敎説を天下に發表した。ところで、彼等の敎説は敎説として、民衆は彼等の宗敎をいかに受容れたか。それこそ誰人も知らんと欲するところであらう。そしてかゝる要求に對應する文獻こそ實にこの沙石集である」

とはいへ、内容は、本地垂迹説話、諸佛靈驗説話、因果應報説話、遁世往生説話などで、佛教用語に加へて神道用語も出てくるので取りつきにくい。

 

正月廿四日(月)舊暦十二月廿二(丁丑) 晴

朝、齒科醫院に連絡し、慈惠大學病院の齒科でも診てもらへることになつたことを傳へ、了解していただいた。

日中、讀書。はじめに和本の 『圓光大師法語集 坤』 と 『妙好人傳』、それに 『沙石集』 を數話づつよみ、つづいて一茶。

伊藤晃著 『一茶と下総俳壇』(ニーズ) 讀了。大谷弘至 『楽しい孤独』 にくらべると、一茶にかんしてひどく辛辣であるが、流山が一茶にとつて、第二のふるさとであることがさらによくわかつた。

 

正月廿五日(火)舊暦十二月廿三(戊寅・下弦) 晴

『妙好人傳 初篇上』(和本 天保十三年刊) 讀了。

「妙好人」については疑問があつた。二〇一九年十二月に讀んだ、小栗純子著 『妙好人とかくれ念仏―民衆信仰の正統と異端』 によつてわかつたことだが、妙好人は、幕府と幕府に癒着した本願寺敎團の統制(彈壓)を逃れた念佛者等にたいする、「江戸幕府体制下の期待される人間像として、浄土真宗・本願寺教団によつて生み出された、理想的念佛者だつた」 といふのである。たしかに、そのやうな視點をもつてよまなければならないと思ふが、すいすいよめるので面白い。

先日、角川文庫の舊字舊假名本なので求めた、夏目境子 『漱石の思ひ出』 が面白いので、ついついよみ進み、漱石の 『草枕』 や 『硝子戸の中』 などを再讀したくなつた。 

*今日の新型コロナウイルスの國内感染者數は六二六一二人、東京の新規感染者は一二八一三人。ともに過去最多。

 

正月廿六日(水)舊暦十二月廿四(己卯) 曇りのち晴

夏目境子 『漱石の思ひ出』 よみすすむ。面白い。

*今日の新型コロナウイルスの國内感染者數は 七一六三五人、東京の新規感染者は 一四〇八六人、大阪府で 九八一三人、神奈川県で 四七九四人、埼玉県で 三八九〇人などと、過去最多をさらに更新

 

正月廿七日(木)舊暦十二月廿五(庚辰) 晴のちくもり

夏目境子 『漱石の思ひ出』(角川文庫) 讀了。

内容・・・妻・鏡子の目に映じた亡き夫、夏目漱石。お見合い、婚礼から、親戚づきあい、子どものこと、そして闘病、その死まで、苦楽を共にした者のみが知る、結婚生活20年のエピソードの数々。人間・漱石の姿が、温かく率直な語りで生き生きと蘇る。漱石の門下生にして長女・筆子の夫でもあった小説家の松岡譲が筆録し、漱石の十三回忌を機に刊行された。

漱石が樋口一葉に感心し、全集を讀んで感嘆してゐたことや、ロンドンからの歸朝後、精神に異常をきたして、人間性を逸脱してしまつた樣子が克明に語られてゐるのが興味深かつた。

ところで、夏目漱石は大正五年(一九一六)十二月九日に五十歳で亡くなつたのだが、ぼくの父は、同じ大正五年十二月十日に生まれてゐる。漱石が亡くなつた次の日といふことになる。ちなみに、妻が十二月九日生まれで、、漱石が亡くなつた日。父とは生前一緒に誕生日を祝つてゐたことが思ひ出される。

 

正月廿八日(金)舊暦十二月廿六(辛巳) 晴

今日は金曜日、神田の古書會館では古本市が開かれることになつてゐるが、どうも新型コロナウイルスの感染者がまた急増してきてゐるので、行くのをやめ、上野の “ねぎし” で晝食をすまし、それから、日本橋に向つた。

内田百閒 『漱石山房の記』(角川文庫) を持ち歩き、夜には讀了。『漱石の思ひ出』 につづき興味深かつた。

*今日の新型コロナウイルスの國内感染者數は 八一八一六人、東京の新規感染者は 一七六三一人、またまた過去最多を更新

 

正月廿九日(土)舊暦十二月廿七(壬午) くもりときどき日差し

今日も机にむかつて讀書。だが、居眠りばかりしてよみすすめなかつた。

それでも、『漱石山房の記』 につづいて、辰野隆 『忘れ得ぬ人々』(講談社文芸文庫) をよみはじめたら、「少年の頃から露伴先生を山岳の如くに仰ぎ見ていた」著者が、幸田露伴全集が出版されたことについて書いてゐる。

「先生の永眠後新しい全集が出版され、巻を重ねるに従って、僕の先生に対する敬慕は愈々深くなって來た。何よりも先ず、日本語というものがこれ程ゆたかな、これほど底の深い国語であったか、という悦楽は蓋し無限である。漢字制限や新かなずかいの一知半解の輩は未だ真に日本語を味到していないのである。先生の文章を読み、談話を聴くと、僕等の日本語の貧しさ、たどたどしさが鏡にかけて見るように分明になってくる」 

その全集が、古本屋で一册三百圓で出されてゐたのを見たことがあるが、だからといつて買ふ氣にはなれなかつた。たしかに難しいし、よむには根氣がゐる。せめて文庫本でよむことにしよう。

ところで、この 『忘れ得ぬ人々』、講談社文芸文庫でよみはじめたが、本箱に舊字舊假名の角川文庫が見つかつたので、急遽とりかへてよみすすむ。 

 

正月卅日(日)舊暦十二月廿八(癸未) 曇天

今日も机にむかつて讀書。『忘れ得ぬ人々』 よみすすむ。

 

正月卅一日(月)舊暦十二月廿九(甲申) 晴

今朝、朝一で慈惠大學病院の齒科に通院。入れ齒づくりの基礎として、慈惠で三本の抜齒をしてくださることになり、その日は一日入院させてくださるといふので、ぼくとしたらこれ以上の安心はない。日時等は、循環器内科の主治醫とも相談したのち、十四日の通院のときに決めることになつた。

歸路、神保町により、“成光”さんで今日はチャーシューメンをいただき、その後古本を見て歩く。八木書店にもお寄りした。収獲は、夏目伸六 『父・夏目漱石』(文春文庫)、半藤末利子 『夏目家の福猫』(新潮文庫) と 『漱石の長襦袢』(文春文庫) など。

夕食は、上野の壽司屋で、にぎり壽司のほかに、生ガキがをいただいた。グラスビールもうまかつた。

昨夜、辰野隆 『忘れ得ぬ人々』 讀了。つづいて、『露伴翁座談』(角川文庫 舊字舊假名) を讀みはじめる。

今日の歩數・・・七七九〇歩

 

*晝食、神保町 “成光”さん のチャーシューメンと壽司屋の生ガキ 


 

 

正月一日~卅一日 「讀書の旅」 ・・・』は和本及び變體假名・漢文)

二日 小島政二郎 『私の好きな古典 樋口一葉・芭蕉』 (文化出版局)

三日 黄色瑞華著 『一茶の世界 親鸞教徒の文学』 (高文堂出版)

六日 加藤周一 『日本文学史序説〈上〉』 (〈第四章 再び転換期〉 ちくま学芸文庫)

七日 大谷弘至編 『ビギナーズ・クラシックス日本の古典 小林一茶』(角川ソフィア文庫)

十二日 ローレンス・ブロック 『死への祈り』 (二見文庫)

十六日 山田英生編 『老境まんが』 (ちくま文庫)

同日 杉浦明平 『崋山探求』 (岩波同時代ライブラリー)

同日 森銑三 『西鶴一家言』 (〈私の西鶴研究序説〉 河出書房新社)

十八日 大谷弘至 『楽しい孤独 小林一茶はなぜ辞世の句を詠まなかつたのか』 (中公新書ラクレ)

廿日 荻原井泉水校訂 『一茶遺稿 父の終焉日記』 (岩波文庫)

廿一日 小池直太朗編 『一茶日記抄』 (萩原朝陽館 初版大正十年刊)

廿三日 法然 『圓光大師法語集 乾』 (和本)

同日 伊藤滋彌 『一茶第二のふるさと─松戸馬橋と流山』 (著者自作の册子)

廿四日 伊藤晃著 『一茶と下総俳壇』 (ニーズ)

廿五日 釋仰誓撰 『妙好人傳 初篇上』 (中山園 文醒堂 天保十三年版)

廿七日 夏目境子 松岡譲筆録 『漱石の思ひ出』 (角川文庫 舊字舊假名)

廿八日 内田百閒 『漱石山房の記』 (角川文庫 舊字舊假名)

卅日 辰野隆 『忘れ得ぬ人々』 (角川文庫 舊字舊假名)