四月廿一日(火)舊三月廿九日(甲午) 曇り時々晴

 

今日も靜かに讀書。『源氏物語〈螢〉』 と、小実さんの 『カント節』 を讀みあげる。 

〈螢〉では、光源氏の「物語論」が展開されてゐて、大野晋・丸谷才一著 『光る源氏の物語』 によると、漢文に達者だつた紫式部だから、「日本製の下手な漢文で書いた『日本書紀』なんか問題じゃない」と言へたとして、それにくらべて、物語は、「人の上のことを書くといっても、ありのままに書くことはないんだ。良きも悪しきも世間に生きている人の、見ても飽きない、聞いても何か心に余るような有様を、あとの世まで言い伝えさせたいと思う、そういうことを心の中だけにとどめておけなくて書いたもの」と述べ、「もう、けた違いに近代文学的です」としめくくつてゐる。

 

ところが、福嶋昭治著 「源氏物語における歴史と物語螢の卷の『物語論』解釈をめぐって」(山中裕編『平安時代の歴史と文学』所収) においては、「後世への鏡として、道々しき道理を明らかにする歴史(『日本書紀』など)に対して、道理に納まり得ない私情にこだわることが物語の意味なのではなかろうか」と述べ、結論として、こちらは、「『これら』を『日本紀など』を指すものと解し、紫式部が一方で歴史の価値を十分に認識しつつ、それに対置して、物語の価値を確立した論として、螢の卷の「物語論」を改めて評価できないであろうか」としめてくくつてゐる。 

 

『カント節』 は、なんだかわからないことばかり書かれてゐる。『香具師の旅』 の話のつづきのやうな思ひ出ばなしもあれば、また難しい哲學談義が延々とつづく。スピノザの 『エチカ』 にはじまり、三木淸の 『パスカルにおける人間の研究』、プラトンの 『国家』、カントの 『純粋理性批判』 に 『プロレゴメナ』、ジョウン・デューイの 『哲学の改造』、ベルグソンの 『創造的進化』 と、「思想と動くもの」ⅠからⅢまでと、マルティン・ブーバーの 『我と汝・対話』 等々を取り上げ、それらがみな岩波文庫の飜譯本だといふのも面白い。まあ、だいたい手もとにあるので、引用個所はできるだけ直接ページを開いてみた。 

それに、福音書のことと牧師だつた父親のこと、その信仰については、ちよつと特異(エキセントリック)な感じがした。 

つづいて、『モナドは窓がない』 を讀みはじめる。帶には、「哲学か、それともヘリクツか。福音書、ルソー、カント、ライプニッツ。ひとりよがりな読書の楽しみを語る不思議なコミマサ・フィロソフィー」 とある。 

 

東京都内で新たに一二三人が新型コロナウイルスに感染していることが確認され、都内で感染が確認された人は、これで三三〇七人になった

 

 

四月廿二日(水)舊三月卅日(乙未) 晴のち曇天、小雨

 

とても良い天氣だが、外出を自制して讀書。ヰルヘルム・ブーセ著・林達夫譯 『イエス』(岩波文庫) を讀みすすむ。 

 

新型コロナウイルスの感染者は廿二日、東京都内で一三二人が判明するなど、全国で新たに三八〇人以上が確認された。国内の死者は、累計で三〇九人となった。 

ところが、コロナ問題のどさくさに紛れて、政府がとんでもない法律をたてつづけに成立させようとしてゐるといふ東京新聞の記事をみてびつくりした! 

見出しには、「新型コロナのどさくさに紛れ?」、「火事場泥棒続々、不要で不急様々」とあり、「『検察庁法改正案』国会審議入り」、「・監視社会か『特区法改正案』、・種買わせる『種苗法改正案』、・緊急事態条項設ける『改憲』」。

 

「種苗法」について言へば、毛倉野で米作りをしはじめたとき、刈り取つたあとにれんげ草の種を蒔いたところ、その種からは花が咲いたが、ついた種が田に蒔かれたはづなのに、次の年には芽も生えてこなかつた。種苗屋に問ひ合はせたら、それはハイブリッドだから、花や實を毎年生らせたかつたら毎年種を買はなければならないと言はれた! これはほんの一例だが、そのため、近所の農家では、できた作物の種を毎年保管してゐたことを思ひ出した。お米の場合、とれた籾を次の年の苗用に保存しておいたからいいものの、もしすべての種を管理されたらと思ふと空恐ろしくなる! 

 

夜、アマゾンで、”不良探偵ジャック・アイリッシュ死者からの依頼“ を見る。 

 

毛倉野にて ラムとハイブリッドのれんげ草

 

 

四月廿三日(木)舊四月朔日(丙申・朔) 晴のちくもり

 

今日も、ブーセ著 『イエス』 を讀みすすみ、やつと 「第一章 イエスの生涯の外部的經過、並びに彼の活動の諸々の形式」 を讀み終へた。のこるは 「第二章 説教」 と 「第三章 人格の秘密」。第一刷が昭和七年なので、もちろん正字・歴史的假名遣ひである。 

内容は難解、といふよりも、久しぶりなのでとまどひつつ理解につとめてゐるやうな状態である。むろん、文語譯福音書をかたはらにして、まあ、復習のつもりで讀み通したい。 

 

ソファで讀んでゐても、グレイが、胸もとに入つたり出たりで落ちつかないが、それでもぐつすり寢入つてゐる姿を見てゐるとこころがやすらぐ。お互ひの動悸が響きあつて、ぼくの心臟ももう少し長持ちさせなければならないと思つた。 

 

夕食後、「鶴光の噂のゴールデンリクエスト」を聞いた。先日聞いた内容よりもよりエッチ度が増したやうに思つた。いいぞ、いいぞ! 

 

東京都、新たに一三四人の新型コロナウイルスの感染を確認 

 

今夜もアマゾンで、不良探偵ジャック・アイリッシュ2人の父への鎮魂歌“ を見る。 

カスタマーレビューより・・・オーストラリアのTVシリーズ。1時間半弱のTV映画3本が作られ、後に1時間ドラマがシーズン2まで放送された。不良探偵は無能な邦題なだけで、原題は” Bad Debts”であって、悪い負債って意味で、主人公ジャック・アイリッシュは悪い探偵なんかじゃなく全然いい奴です。ギャンブラーとして生活費を稼ぎ、趣味としてなのか見習い家具職人をし、元弁護士の経験を生かし人助けのような探偵業をする、ある意味理想のような生活をするヤサグレ中年オヤジを演じるのは1967年生まれのガイ・ピアーズ。今回も何故か政財界の大物の犯罪に巻き込まれるお話。本シリーズは、味のあり過ぎるチョイ役たちのキャラで楽しめる作品。本作も新キャラクター登場、臓器をくれる男と早口な女。 

 

 

四月廿四日(金)舊四月二日(丁酉) 晴のち曇天、小雨

 

今日も、ブーセ著 『イエス』 を讀みすすみ、「第二章 説教」 では、魂がゆすぶられるやうな言葉に出會つた。いや、ゆすぶられたといふより、ゆらいでゐた魂が、海底に降りた碇がよりどころ、といふか、安定を得たやうな感じがしたのである。これはひさびさの經驗であつた。特に、註にしたがつて、ロマ書の第八章の後半を讀んだときには、我ながら衝撃を受け、胸があつくなつた。すでに何度も讀んだ箇所であつたはづなのに、たしかにさうだ、さうだつたなあと思つたのである。 

イエスの山上の説敎における道德的要求の内容と根本的特徴について、次のやうに記されてゐる。 

「福音の核心には道徳律の血の氣のない影像が立つてゐるのではなくて、個々の人格的生活は神のうちにその目標と完成とを持つてゐるといふ搖ぎなき確信が立つてゐるのだ」 

なぜ心の貧しき者、悲しむ者は幸ひなのか、なぜ敵を愛せよなのか、これはひとつのすぐれた解答だらう。 

 

東京都内で廿四日、新たに一六一人が新型コロナウイルスに感染。全國では四三三人。都内の感染者は十一日連続で一〇〇人を超え、都内の感染者は、これで三七三三人となつた。 

 

今夜もアマゾンで、不良探偵ジャック・アイリッシュ3度目の絶体絶命“ を見る。 

オーストラリア映畫を見たのはこれがはじめてではないかと思ふ。なかで、寒いときには北へ行こう、などといふセリフがあつて、おや、とそのとき氣づいたのだつた。 

 


 

 

四月廿五日(土)舊四月三日(戊戌) 晴

 

ブーセ著 『イエス』 を讀了。原文は、一九〇六年(明治三十九年)刊。著者は、宗敎史學派の創立者の一人。そのわりには諸宗敎の比較の中にイエスを埋没させることなく、キリストとしてのイエス像をしつかりと描いてゐるとぼくには思はれた。

 

註・・・「宗敎史學派」=キリスト教神学,特に聖書学に関する一学派。キリスト教がほかの宗教から卓越した特殊な啓示宗教であるとの前提に立たないで、これをほかと同列の一宗教現象として取扱い、一般の比較宗教史の批判的研究方法を適用して、聖書の宗教を周辺のアッシリア、バビロニア、エジプト、東方密儀宗教などの文化、社会、歴史などの条件と関連させながら、その成立を解明しようとした。 19世紀末から第1次世界大戦にかけて特にドイツで盛んであり、J・ワイス、E・トレルチ、J・グンケル、W・ウレーデ、W・ブセット(ヰルヘルム・ブーセ)らの学者を輩出し、M・ディベリウス、R・ブルトマンらの福音書の様式史的研究に影響を与えた。 1920年代以降教義学からの反対もあるが、その聖書学に対する貢献は甚大である。 

 

それにしても、魂に手をさしのべてくるやうな文章を讀んでゐて、あらためて神學書を讀んでみたくなつた。書庫をしらべたら、すでに讀んだものではあるが、キェルケゴールの 『イエスの招き─キリスト敎の修錬─』 をはじめ、R・ブルトマンの 『イエス』、『史的イエスとキリスト論』、K・バルトの 『教会教義学』、それに松木治三郎先生の著書(『人間』)などが目にとまつた。 

また、讀むにしても、聖書はやはり文語譯だなと思つた。口語譯とくらべると、胸に響いてくる力、といふか、熱量が違ふ。口語譯は、わかればいいのかも知れないけれど、文語譯は讀む者の心を動かし、生きる力を與へてくれる。 

 

午後、NHK・Eテレで、「こころの時代」を見た。「それでも生きる旧約聖書・コヘレトの言葉 (1)」 といふ内容で、NHKのホームページには・・・ 

 

【第1回「コヘレトの言葉」とは何か】 旧約聖書の「コヘレトの言葉」は、聖書の中でも名言が多いことで知られる。一方 「一切は空」 「死ぬ日は生まれる日にまさる」 など、一見虚無的な言葉が並ぶ謎の書でもある。この書が現代に伝えるメッセージとは何か。30年以上の研究者である牧師の小友聡さんと批評家でクリスチャンの若松英輔さんと共に読み解くシリーズの1回目。「コヘレトの言葉」と先の見えない現代とのつながりを考える 

 

とあつた。また、この番組中で、『聖書 聖書協会共同訳』 が最近出版されたことを知つた。昨年末に銀座敎文館で見かけてはゐたのだが、まさかそれが、『新共同訳』 とはまつたく別の、「ゼロからの翻訳」の聖書だとは知らなかつた。 

 

以下、番組を薦めてくれた友人への感想文・・・

 

こんばんは Eテレの 「こころの時代」 は、時々見てゐたのですが、このところ見過ごしてゐました。でも、今日の番組、『コヘレトの言葉』 については、とても參考になりました。「それでも生きる」 といふ副題(本題?)もぼくは氣に入りました。逆境の時代に記されたからでせう、内容もあらためて讀んでみたい。 

でも、『コヘレトの言葉』 といふ表題は氣にいりませんね。やはり 『傳道之書』 でせう!たしかに、『新共同訳』 の 「なんという空しさ なんという空しさ すべては空しい」(1の1) より 『聖書協会共同訳』 が、「文語譯」の 「空の空 空の空なるかな哉 すべて空なり」 にもどしてゐるのはいいと思ひますが、ね。聖書は、ぼくは、理解しやすい譯だからいいとは思はないのです。 

今日の對談の終りのところで、若松さんが、聖書を「聖典」として讀むか、「古典」として讀むか、の違ひについてお話されてゐたのが興味深かつたです。以下はぼくの理解で言ふことですが、頭(知識や知性)で理解できる古典讀みと、どんと胸に迫つてくる言葉として、その前にひざまづかせるやうな讀ませ方をせまる聖典讀みとは違ふと思ふのです。といふことは、誤解を恐れずに言へば、理解できなくてもいい、さうだなと身をまかせてしまふ言葉として受けとめられるか、といふことなんです。 

聖書はやはり 『文語譯』 だと思ひます。『聖書協会共同訳』 はまだ手もとにないので、『新共同訳』 だけとくらべますが、胸に響いてくる力、といふか、熱量が違ひます。新共同訳は、わかればいいのかも知れないけれど、文語譯は讀む者の心を動かし、生きる力を與へてくれる、ことばの質量が違ふと思ふ。新共同訳は古典讀みに比重がかかり、文語譯は聖典讀みに比重がかかつてゐると言へるかも知れません。ここは難しいところです。もちろん理解できるにこしたことはありませんが。今日の番組は、そんなことを考へさせる内容でした。 

しばらく聖書も、神學書も讀んでゐませんでしたが、なんだか突然讀みたくなつてきました。ではまた。頭を使つたので、だいぶ疲れました! ひげ淳 

 

 

 

四月一日~廿五日 「讀書の旅」 ・・・』は和本及び變體假名・漢文)

 

三日 佐々木 譲著 『警官の血(上)』 (新潮文庫) 

五日 佐々木 譲著 『警官の血(下)』 (新潮文庫) 

八日 佐々木 譲著 『警官の条件』 (新潮文庫) 

十日 佐々木 譲著 『仮借なき明日』 (集英社文庫) 

十二日 五木寛之著 『隠された日本 大阪・京都 宗教都市と前衛都市』 (ちくま文庫) 

十三日 『宇治拾遺物語 卷第四』 (第一話~第十七話) 

十六日 五木寛之著 『隠された日本 加賀・大和 一向一揆共和国 まほろばの闇』 (ちくま文庫) 

十八日 田中小実昌著 『香具師の旅』 (河出文庫) 

廿一日 紫式部著 『源氏物語二十五〈螢〉』 (靑表紙本 新典社) 

廿一日 福嶋昭治著 「源氏物語における歴史と物語螢の卷の『物語論』解釈をめぐって」(山中裕編 『平安時代の歴史と文学』 吉川弘文館 所収) 

廿一日 田中小実昌著 『カント節』 (福武書店) 

廿五日 ヰルヘルム・ブーセ著・林達夫譯 『イエス』 (岩波文庫)