四月廿六日(日)舊四月四日(己亥) 晴のちくもり、暖かい

 

今日、小実さんの 『モナドは窓がない』 を讀んでゐたら、昨日思ひ浮かんだ聖書の理解に關連した、興味深いことが書かれてゐた。「福音書を読む」といふ章である。

 

「聖書を物語やドラマにするのは、おおぜいの人にわかりやすく、なじみやすいからと言われる。でも、聖書だけでなく、わかりやすいというのは、たいへんにヤバい。それこそ、あることがわかりやすくなるのなら、かまわない。だが、たいていは、人々にわかりやすい、ほかのことにすりかわってしまう。ちがうことを、そのことがわかりやすくなったとおもいこむ」

 

たしかに、わかつたといふことは、それを自分の經驗と知識の秩序世界内におさめてしまふか、排除してしまふことで、自分の經驗外の世界に直接出會はうとしてゐるわけではない。無理やりに自分の世界にねじ込んでしまひ、あるいはねじ込めたことで、わかつたと言つてゐるやうなものだ。それで納得したなんていふのは、錯覺以外のなにものでもないだらう。むしろ、わからないと言ふはうが正直といふものだ。 

わかるとか理解するといふことは、本來は、他者あるいは對象との出會ひによつて、自分なりの秩序世界が傷ついたり壞されることであり、それを修復する作業に似てゐる。創造的破壞といつてもいい。もつと極端なことを言へば、他者に侵略されて、自分自身の再構築を迫られることである、とぼくは思ふ。

 

小実さん、つづいて、いいことを言つてゐる。 

「ともかく、牧師だからって、聖書に書かれてることぜんぶに、自分が責任をおうような考えは、おこがましく、せんえつなのではないか」 

まつたくそのとほり。小実さんはえらい! 

 

さう、文語譯聖書と言へば、何年も前の古本市でたまたまみつけ、一〇五圓だつたので買つておいたことを思ひ出した。夜中だつたけれども書庫に忍び入り、探し出してきて、それを切り分けて分册にしてみた。ちやうど、源氏物語の註釋書や 『増註源氏物語湖月抄』 などを帖ごとに分けたのと同じである。 

ただ、必要な部分が、奇數ページからはじまればいいけれど、偶數ページからであると、前の文書の最後のページを切り取つてしまふことになる。 

「傳道之書」 はその偶數ページからはじまるので、前の 「箴言」 のはじまるページをみたら奇數であり、その前の 「詩篇」 をまるのまま殘せることがわかつた。しかも、うしろの 「雅歌」 をみたら偶數で終つてゐる。それで、この三文書をまとめて切り取り、ホッチキスで綴じたら、くるりと手のひらにおさまる小册子に生まれかはつた。 

 

 

四月廿七日(月)舊四月五日(庚子) 曇天のち雨

 

昨晩、といふか、早朝のNHKラジオ深夜便を聞いてゐたら、《絶望名言》といふ番組をやつてゐた。はじめて聞く名前の頭木広樹さんと川野アナウンサーとのやりとりだつたが、へえ~、こんな番組やつてゐたんだと思はず感心してしまつた。 

頭木広樹さんは、ぼくははじめて聞く名前で、柏木かと思つてしまつたが、頭木(かしらぎ)と書くらしい。『絶望名人カフカの人生論』 とか、『絶望読書 ―苦悩の時期、私を救った本』 などを書いてゐる方で、『ラジオ深夜便』内のコーナー《絶望名言》に、毎月第四日曜日の深夜に出演してゐるといふ。 

そのはなしのなかで興味深かつたのは、頭木さんが闘病生活をしてゐたときに、六人部屋の他のみなさんに、ふだん讀んだことも、おそらく手に取つたことさへなかつたであらうドストエフスキーを薦めたところ、みなさんのめり込んでしまつたといふお話であつた。 

これはよくわかつた。今のぼくの心境と似てゐるところがある。面白おかしい讀書もいいけれど、渇いたのどを潤すやうな讀書などを求める心境といふのは、一種の飢ゑなのであらうと思ふ。砂漠のただ中に追ひやられてはじめて、水のありがたさがわかるやうに、人は逆境にあつてはじめてことばの力にめざめるのではないか。このやうなときに必要なのは、やはり古典であり、人によつては聖典であらう、とぼくは思ふ。 

 

田中小実昌著 『モナドは窓がない』 讀了。本書でとりあげてゐる本は、小実さんの父親に洗禮をさずけた久布白(くぶしろ)直勝牧師の書 『基督教の新建設』 と、福音書、ルソーの 『告白』 に、カントの 『純粋理性批判』 と、ライプニツの 『単子論』 で、それぞれむずかしかつた。 

ただ、久布白牧師の息子さんと新橋でお會ひしたくだりがおもしろく、また、久布白牧師の奥さんといふ方(久布白落実)が、『廃娼ひとすじ』 などを書いた、矯風會會頭にもなつた人であるといふのはおどろいた。 

讀んでゐて、これらの單行本は小実さんの讀書記録といふか、小実さん流の讀書の旅なのだなあと思つた。いくら飜譯された岩波文庫であつても、むずかしいものはむずかしい。それを俎上に載せて對話できるなんて、やはり小実さんはえらい。 

つづく、『なやまない』 を手に取つて、ペラペラとページをめくると、こんどは西田幾多郎との對話のやうである。 

 

 

四月廿八日(火)舊四月六日(辛丑) 曇り時々晴のち雨

 

『御所本うち拾遺物語 卷第五(第一話~第十三話)』 讀了。變體假名のお勉強のつもりで讀んでゐるけれど、文字も内容も平安文學よりやさしいし、人間の馬鹿らしさ、といふか、その地金があらはにでてゐて面白おかしい。 

卷第五だけが和本で入手できなかつたので、宮内庁書陵部藏といふ印刷本(影印書)で讀んだけれど、やはり煮詰めたやうなぼろぼろの江戸時代刊行の和本がなつかしい。 

 

また、小実さんの 『なやまない』 を讀みはじめたら、なんだか勝手が違ふのである。西田幾多郎と言へば、なんてつたつて 『善の研究』 であらうに、對話の相手は 『哲學の根本問題』 であり、『哲學概論』 であつて、兩用とも岩波文庫にはない單行本なのである。文庫本であれば 『善の研究』 はじめ、出てゐる七册が手もとにあるが、ないものをペラペラ參考にできやしない。それにいやにむずかしい。『なやまない』 どころかなやんでしまふ。

 

でも、突然トゥルナイゼンやらバルトが出てきたのにはおどろいた。そのわけは、小実さんが福岡の高校生だつたころ下宿した永野さんといふ方の長男の永野羊之輔さんが、のちに廣島大學教授となり、小実さんのお父さんが牧師をしてゐた呉の敎會の敎會員だつたのである。その永野羊之輔さんが翻譯した書が、トゥルナイゼン著 『ブルームハルト』(新教新書) だつたのである。これはぼくも讀んだことがあるが、このブルームハルトといふ牧師父子の信仰者としての歩みに、トゥルナイゼンとカール・バルトがたいへん影響されたといふのである。 

そこで、小実さんはおもしろいことを言つてゐる。

 

「ブルームハルト父子は、奇蹟的におなじだったみたいだが、父と息子だから似たところがあってもちがうものだ。しかし、(ブルームハルト父子の)神は父ブルームハルトにも、子のブルームハルトにもおなじ神だった。だから、ブルームハルト父子もおなじだったと言えば、みんなわらいだすかな。神がおなじなのはあたりまえではないか。神がちがうほうがおかしい、と。 

ところが、ひとりひとり神がちがうんだなあ。それは、みんなココロに神をもっているからだ。そして、ひとがちがえばココロもちがい、ココロのなかの神もちがう。ココロの神が一斉にそろうこともあるかもしれないが、神のレプリカが行列してるみたいだ」

 

これはなんといふ深い思索であり、言葉だらう。能ある鷹は爪を隠すと言ふが、小実さんはずるくてえらい! 

ちなみに、小実さんは、バルトについては、『イスカリオテのユダ』 と 『ヨブ』 を讀んださうだ。ついでに、ぼくのことを言へば、井上良雄著 『神の国の証人・ブルームハルト父子 待ちつつ急ぎつつ』 を讀んで感動した記憶がある。それに、今思ひ出したのだが、井上良雄先生とは、靑學時代、淺野順一先生のお宅で行はれた讀書會に出席したときにお會ひして、歸路驛まで一緒に歩いたことがあつた。井上先生は、キェルケゴールの 『イエスの招き─キリスト教の修錬─』(角川文庫) をはじめ、カール・バルトの著作の翻譯者としてすばらしいお仕事をしてをられる。 

 

 

四月廿九日(水)舊四月七日(壬寅) 晴のちくもり

 

小実さんの 『なやまない』 讀了。いやあ、なやまないどころかとてもなやましい本でありました。

 

「西田経」の章ではそのむずかしさになやみ、「なやまない」と「メイクビリーブ」、それに「その日」の章では、どうでもよささうなはなしを、小実さんの下半身のしまりのなさをふくめて、えんえんと語られ、最後は、小実さんのお父さんの「はなし(説教)」まで讀まされた。罪のはなし、十字架のはなし、復活のイエスのはなし。

 

「生命(いのち)は、守ったり、持ったりしないで、ただ受ける、生命は、たえずふりそそいでいる。それを持ったり、守ったりしてしまうと、生命は死ぬ」 とか、 

「この世では、信念や信仰はだいじなこと、りっぱなことだろう。でも、イエスの前では、りっぱな人間だって、どうってことはない」 とか、 

「神の前には罪深くして出ることができない自分を、それこそ自覚だが、煩悶がおきてくるのが、ほんとうの神の前にたっている人だ」 

そして、小実さん自身の告白として、 

「神の国というのが、ぼくにはさっぱりわからない。しかし、ドイツの一地方の牧師だったブルームハルトの有名な言葉、『神の国だ! 宗教ではない!』 などをきくと、わかりはしないが、気分がいい。神の国は、将来、理想的な世の中になるというのではなく、イエスがいるところが神の国、イエスが神の国をたずさえて、せまってくる、ということのようだ」。

 

ところで、この最後の「十字架」の章を讀んでゐて、ぼくは、かつて、敎會でどのやうなはなしをしてきたのだらうか、と心配になつた。ノートはどこかにあるはづだから探してみよう。そしてそんなことを妻とはなしてゐたら、「ジュンさんはまた牧師をやるのかもね? ・・・ただ通いでね」 なんて言はれてしまひ、むろん否定するにはしたが、なんとなくペテロの心境を思ひ浮かべてしまつた。

 

小実さんの本、年代順にいつたら、つぎは 『アメン父』 である。帶にはつぎのやうにある。 

「アメン、アーメン、アメン─ただ、ただ、アーメン。牧師でありながら 宗派や教義を否定し 十字架の上に自己の意識を引き上げることで神の臨在を感じた父。その生涯をひそやかな敬愛をこめながら飄々と綴りゆく―」 

あるいは、河出書房新社の「出版のご案内」には、 

「既成の教団、教派とは一線を画した信仰グループを作り、ひたすらアーメンを唱えつづける〈父〉の宗教とは一体何か? 父の生の足跡を追求する物語」 とある。 

 

 

四月卅日(木)舊四月八日(癸卯) 晴のちくもり

 

四月十五日に柴又に行つたきり、この二週間まつたく外出をしなかつた。外出を控へろといふちまたのスローガンがうるさいからだけでなく、なんだか體調がすぐれなかつたからでもある。古本市が開催されてゐれば、それでも勇氣をふるしぼつてでも行くのだけれども、のきなみ中止である。これでは食事にも行けず、猫を相手に讀書するしかぼくの樂しみはない。が、それは最大の、そして究極的な樂しみであり喜びだから、飽きるなんてことはない。ありがたいことである。 

それにしても、四月には、古本屋と古本市に行くこともなく、本の購入量が極端に少なくなつた。たつた二册である。しかも日本の古本屋とアマゾンを通じての通販である。 

 

小実さんの 『アメン父』 讀了。 

小実さんの妹の夫、伊藤八郎さんがそろへてくれた父親の諸資料や寫眞を見ながらの解説、といふか、思ひ出ばなしがおもしろい。廣島縣の呉にあつた「父」の敎會の樣子や思ひ出ばなしも興味深いものがあつたが、「父」の家系に關するはなしがまたおもしろかつた。 

小実さんの父親は、「明治のおわりごろから大正にかけてアメリカにいて、キリスト敎というものを知った」人だつた。その「父」が洗禮を受けた敎會は、シアトル日本人組合敎會で、れつきとしたプロテスタントの教派であり、かつパサデナのナザレン大學にも在學したといふ。

 

ここで、ぼくは、洗禮をさずけてくださつた中山眞多良牧師を思ひ出した。そのとき先生は六十歳くらゐだつたから、生まれは明治のおはりごろ、「父」よりひとまわり半ほど後輩だけれども、アメリカで賀川豐彦と出會つて意氣投合し、賀川豐彦とは兄弟分だと豪語してゐた偉丈夫であつた。奥さんがアメリカ人で、禮拜後には手作りクッキーをよくいただいたものだつた。

 

小実さんの「父」は、さらに、歸國後、東京學院神學部といふ、のちに同じバプテスト系の關東學院と合同した神學部を卒業したのに、しだいにエキセントリックになつていくところは、ぼくにはちよつと理解できなかつたが、小実さんももてあましてゐるやうに感じた。 

しかし、あとがきで、「この本は父の伝記でも、ぼくの父へのおもいででもなく、(いまでも)アメンが父をさしつらぬいていることを、なんとか書きたかった」とあるやうに、十字架にさしぬかれた苦しみによつてか、歡喜によつてか、「父」は滿たされた人生を歩み通したのだなあ、とぼくは思つた。

 

それで、ちよいとこころにのこる小実さんと「父」のことばをうつしておきたい。

 

「いわゆる宗教的なるものは、そっくり偶像になりやすい」 

「そもそも、なにかをもとめて教会にくるようなのはダメだ。きよらかさや、聖なるものへのあこがれ、いや、はっきり言ってしまうと、ココロのはたらきみたいなことは宗敎にはカンケイない、逆に、つまづきになるだけだ。宗敎はココロの問題などとおもったら大まちがい」 

「うちの父はキリスト敎の牧師なのに信仰をうたがった。だから、それまでの宗派にいられなくて、自分たちの教会をつくったのだが・・・・・。信仰にも説明や理屈はない。こちら側が信仰をもつのではない、父はうけるということを言った」 

「敬虔なクリスチャンの敬虔さも、それこそ敬虔を身にまとうだけで、身をまもるしたたかな防具になる。・・・・・人をからっぽにしてくれるのは、宗教しかない。その宗教も、へたをすると、人をからっぽどころか、おもおもしくする」 

 

つづいて、『ないものの存在』 に入る。帶にはつぎのやうにある。 

「西田哲学の論理にたちどまり、浅田彰「逃走論」を追いかけ、柄谷行人「探究」をたんきゅうする。コトバによって閉じてゆく世界を独自の視点で開示する哲学小説5篇を収録!」 

 

 

 

四月一日~卅日 「讀書の旅」 ・・・』は和本及び變體假名・漢文)

 

三日 佐々木 譲著 『警官の血(上)』 (新潮文庫) 

五日 佐々木 譲著 『警官の血(下)』 (新潮文庫) 

八日 佐々木 譲著 『警官の条件』 (新潮文庫) 

十日 佐々木 譲著 『仮借なき明日』 (集英社文庫) 

十二日 五木寛之著 『隠された日本 大阪・京都 宗教都市と前衛都市』 (ちくま文庫) 

十三日 『宇治拾遺物語 卷第四』 (第一話~第十七話) 

十六日 五木寛之著 『隠された日本 加賀・大和 一向一揆共和国 まほろばの闇』 (ちくま文庫) 

十八日 田中小実昌著 『香具師の旅』 (河出文庫) 

廿一日 紫式部著 『源氏物語二十五〈螢〉』 (靑表紙本 新典社)

 

廿一日 福嶋昭治著 「源氏物語における歴史と物語螢の卷の『物語論』解釈をめぐって」(山中裕編 『平安時代の歴史と文学』 吉川弘文館 所収) 

廿一日 田中小実昌著 『カント節』 (福武書店) 

廿五日 ヰルヘルム・ブーセ著・林達夫譯 『イエス』 (岩波文庫) 

廿七日 田中小実昌著 『モナドは窓がない』 (筑摩書房) 

廿八日 『御所本 うち拾遺物語 卷第五』 (宮内庁書陵部藏・笠間書院刊) 

廿九日 田中小実昌著 『なやまない』 (福武書店) 

卅日 田中小実昌著 『アメン父』 (河出書房新社)

 

 

四月に買ひ求めた本

 

四日 佐々木 譲著 『仮借なき明日』 (集英社文庫) 

廿日 田中小実昌著 『くりかえすけど』 (銀河叢書)