二〇二一年三月(弥生)一日(月)舊暦一月十八日(戊申) 晴

 

讀書したり本を移動したり、休み休み順調に本の選別續行。

大佛次郎著 『源実朝』 が、ちやうど和田義盛一族最後の場面を通過したので、そろそろ影印書の 『舞の本 和田酒盛』 にかからうかと思ふが、なにやらむづかしさう。

アマゾンを通して注文した、『閑居友』(前田育德會尊經閣文庫編刊 勉誠社) が屆く。

 

 

三月二日(火)舊暦一月十九日(己酉) 雨

 

本のかたづけ、順調にすすむ。とにかくからだがついてきてくれる。

大佛次郎著 『源実朝』 讀了。しんどかつた。心に殘つたのは、次の政子の述懐である。

「この我が子と執権との間に立ち、政子は、重苦しい不自由な立場に立った。将軍職を今日のような名ばかりの空しいものにしたのが弟(執権・義時)で、政子もまた天下のためと思って、同じ仕事に義時に力を協せて来たもので、その犠牲がこの子だったと知りながら、いまとなっては、実朝の不満をなだめるより他はない」

實朝には子がなく、「俺は源氏の最後の者だ」、としばしば口にしてゐたさうだが、彼の孤獨はひとの理解のおよぶところではなかつたであらう。

うつうつとしてしまつたので、つづいて、北方謙三の 『逃がれの街』 を再讀しはじめる。

 

裏の尾池さんの敷地が更地にされ、しかも我が家との境の塀も取り去られた。ただしい境界線上に塀を建てなほすためである。臺所の戸を開けるといきなりひろびろとした光景が目に入つてきてまぶしい。ノラも落ち着かない。 

 

 


 

三月三日(水)舊暦一月廿日(庚戌) 晴

 

今日は、臺所の納戸の本を選別。必要とおもはれる本だけ二階の書庫にはこび、あとは引き取つてもらふつもり。ここにあるのはおもに文庫本で、舊字・舊假名の、舊版・角川文庫と岩波文庫がそろつてゐる。手にとるだけでわくわくしてくる。

また、書庫に集められた文庫本を分類して、それぞれの本箱に整頓しはじめる。これには時間がかかりさうである。

 

「聖書協会 古本募金」 のために送つた古本十箱が、値がつかなかつたといふ連絡状を受けとつた。バカな! ISBNコードがないものも入れてしまつたが、九割がはついてゐたはづである。それで結局募金ができなかつたのだから、バカにされてゐる、というか、食ひ物にされてゐるのは聖書協會かもしれん。

 

 

三月四日(木)舊暦一月廿一日(辛亥) 晴

 

今日で臺所の納戸の本すべて選別完了。中村莊の工房の本棚からも、必要な本を選別して二階の書庫へはこびはじめた。あますところあと十日。

北方謙三著 『逃がれの街』 讀了。

 

本の選別をしてゐたら、亡くなられた光瀬龍さんの 『歴史そぞろ歩き』 といふ文庫本が目につき、なんとなくもくじを見たら、その最後に、〈「東日流外三郡誌」考〉 とあつた。「つがるそとさんぐんし」とよむさうだ。ふつと思ひだしたのが、何年か前にもとめた 『偽書「東日流外三郡誌」事件』(新人物文庫) であつた。

まづは、光瀬さんの文章をよんでみた。光瀬さんは文がうまい。SFから歴史もの、昆蟲ものでは、『ロン先生の虫眼鏡 ⅠⅡⅢ』 がいい。そんなぼくの好きな作家のひとりである光瀬さんがおすすめ、といふより興味をむけてをられる 東日流外三郡誌』 を避けてはとほれないだらう。

「これがまとめられたのは、実は二百年ほど前、すなわち江戸時代の寛政年間、一七八九年から一八〇一年にかけてであり、その意味では古史古伝ではない。編者は津軽の住人、秋田孝季(秋田の領主秋田氏の子孫)と和田長三郎(鎌倉幕府の御家人和田義盛の子孫)の二人である」

編者が和田義盛の子孫といふのがおもしろい!

「二人は津軽地方に伝わる古文書や系図をはじめ、さまざまな伝承をを記録し、さらに東北一円から広くの本国内各地を旅行し、調査を重ねたという」。

だが、まとめられた 「《東日流外三郡誌》 の内容は、国家が公認しているいわゆる国史を根底からくつがえすようなものであり、国家権力の前にさらすことはきわめて危険であつた」、といふわけで、「この資料集は世に出すことははばかりが多く、結局門外不出の書として、両家に秘密に保管されることになっ」てゐたのだが、「昭和二十二年夏の深夜、突然天井を破って落下した煤だらけの古い箱が座敷のどまんなかに散らばった」といふのが、『偽書「東日流外三郡誌」事件』 の主人公、和田義盛の子孫といふ和田喜八郎さんが 『東日流外三郡誌』 を發見した劇的な瞬間である」。

さあ、これが讀まずにゐられるか?

ただ、『偽書「東日流外三郡誌」事件』 は、發見された文書そのものではなく、この 「謎の古文書の、とんでもない正体」 をあばいたルポルタージュなのである。

内容紹介によると──「青森県津軽地方の農家の天井裏から“発見”された、膨大な数の古文書。正史に記されない驚愕の〈失われた古代・中世史〉の出現に、人々は熱狂した。

しかし、一件の民事訴訟をきっかけに、文書の真贋をめぐって歴史・考古学界、メディアを巻き込んだ一大論争がはじまる――。偽書追及の最先鋒として、文書群の〈トンデモ〉ぶりを検証、偽書事件の構造を徹底した取材で明らかにし、論争に終止符を打ったひとりの地元新聞記者の奮闘記に、後日譚を加えた文庫版。なまじの推理小説よりはるかに面白い、傑作ルポルタージュ」

ちなみに、この古文書(「津軽古代王国の謎。甦る縄文の記憶? 幻の原典史料」)は出版されてゐるさうである。『東日流外三郡誌〈1〉古代篇(上・下)』(東日流中山史跡保存会編集 八幡書店) がそれである。

 

裏の敷地が更地にされ、さらに土を掘り返して瓦礫を取り除く作業がつづいてゐる。その際、瓦礫と土をふるい分けるときのユンボの振動がじつによく響くのだ。地震かなと思へるほどだ。二階にある猫の飲み水がたえず振動してゐる。となりの馬橋の家でもゆれるらしい。道をはさんでゐても近所の家でも大差あるまい。はやく終つてもらひたい。

 

 

三月五日(金)舊暦一月廿二日(壬子・啓蟄) 曇天のち雨

 

今日はかたづけ作業をお休みして、古本市をはしごした。

といつても、出がけに、選別してからになつた納戸の背丈ほどもある本箱をひとつ、應接間に運んだ。

 

散歩をかねて見て回るだけのつもりだつたが、結局何册かは買ひもとめてしまつた。

最初にたづねたのは、所澤のくすのきホールである。この三日から九日までの開催で、久しぶりなので見て回つたけれど、そこでは一册、嵐山光三郎著 『追悼の達人』(中公文庫) を求めた。處分したのと同じ本に多々出會ひ、ちよいと複雑な氣分。

つづいて池袋にもどり、西武池袋本店の特設會場で今日からはじまつた古本まつり。くすのきホールとはうつてかはつて、たいへんな人出である。ゐたのは短時間、すぐに出て、おそい晝食を驛前でとつた。

そしてもうひとつ、地下鐵丸ノ内線で御茶ノ水驛まで行き、文坂をくだつて東京古書會館の古本市をたづねる。もう三時半過ぎだつたこともあつてか人出はすくなく、ゆつくり見て回れたけれど、求めたのは二册。一册は和本で五〇〇圓。髙井蘭山講譯 『兒讀古状揃證註』(天保十年刊) と、角川文庫のたぶん絶版の久保田万太郎著 『淺草風土記』、一五〇圓。これはうれしかつた。久保田万太郎は淺草の田原町生まれで、その生誕地にある碑の前に立つたことがある。

 

歸宅してから、からになつた納戸の本箱をもうひとつ、應接間に運んだ。

 

今日の歩數・・・10010歩。 

 


 

 

三月六日(土)舊暦一月廿三日(癸丑) 曇天のちときどき日差し

 

今日もかたづけ、といふより、二階にあげた文庫本のうち、明治時代以後の文學作品を著作年代順にならべた。要は、著作年を調べるのにてまどり、夜になつてやつと戰後の時代まで並べることができた。ただ、小泉八雲や漱石、柳田國男、永井荷風などはまとめて並べることにした。ほとんどが角川文庫と岩波文庫の舊字舊假名本で、手ざはりがいい。

すでに、萬葉集のはじめから、江戸幕府末までの文庫本で出されてゐる作品は、文學、思想を問はず、著作年代順に並べてあるので、これでつながつたことになる。

これだけで藏書としては十分であるけれども、古典文學作品の影印書や和本がふくまれるので、量としてはおよそ倍。それで、のこすのは原則、「作品」だけにして、その註解書や參考書、學術書等は手放すことにした。歴史についても同じである。

惱んだのは、たとへば、角田文衛さんの著作で、主要な著作はすべてあつたけれど、文庫本の數册をのこしてすでに運び去られてしまつた。平將門關係の參考書もたくさんそろへたけれど、これも處分。他は推して知るべし。惜しいと思つたらきりがない。

ただ、今まだ惱んでゐるのは、中央公論社版 「日本の名著」(全五〇卷) シリーズをのこすか否か? 文庫本では出てゐない著作も入つてゐるので、殘すはうに軍配をあげたいとは思つてゐる。

 

 

三月七日(日)舊暦一月廿四日(甲寅) 曇天

 

今日も選別とかたづけ續行。工房の本箱の選別には悩んでしまふ。書庫にはこび上げた文庫本は、樂しみながら年代順に並べかへる。

斎藤光政著 『偽書「東日流外三郡誌」事件』、面白いけれどすすまず。

 

 

三月八日(月)舊暦一月廿五日(乙卯) 小雨

 

今日も選別とかたづけ續行。午前中は、應接間の本棚のうち、とつておくべき 「群書類從」 正續全卷と 『玉葉』、『明月記』、『吾妻鏡』 を五日に運び込んだ本箱に移動し、のこした 「大日本史料」 とたくさんの古記録、諸橋轍次さんの 『大漢和辭典』 等をすぐ運び出せるやうに、ほこりを掃つて整理整頓する。

また午後から夜にかけては、『ソクラテスの弁明』やキケロやセネカからアランやトーマス・マン、いやフォン・デニケンの 『未来の記憶』 までの外國文學・思想の文庫本を、著作年代を調べ調べ、順番に並べかへた。讀んだものの多くは學生時代に讀んでをり、手放さなくてよかつたとつくづく思つた。

とはいへ、テレビの 「開運! なんでも鑑定団」 を見てゐて、鑑定を依賴する面々が骨董に大金をつぎ込んでゐるのバカにしてゐたけれど、ぼくも、讀みもしない本をよくもまあ買ひ込んだものだと我ながらあきれてしまふ。それだけ讀んできたと辯明したいけれど、妻に指摘されるまでもなく、無謀な買物だつたことにまちがひはない。

 

*處分を待つ應接間の古記録群と大日本史料。それと、整理されて合板本箱に収められた外國文學・思想の文庫本。押入れの中は、萬葉集のはじめから、江戸幕府末まで並べた文庫本の左三分の一

 

 


 

 

三月九日(火)舊暦一月廿六日(丙辰) 小雨のち晴

 

今日も選別とかたづけ續行。書齋と書庫の本をあらためて選別したら、十籠になつた。

午後は、工房の本の選別をすすめる。工房には背丈ほどの本箱が八箱あり、そのうちの二箱の選別を終らせた。のこすは正味あと四日。

 

夜、斎藤光政著 『偽書「東日流外三郡誌」事件』(新人物文庫) 讀了。

光瀬龍さんの 『歴史そぞろ歩き』 のなかでは、『東日流外三郡誌』 が書かれた經緯についてしか触れてをらず、だからどんな内容か知つてみたかつたのだけれども、本書は、『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』 が僞書であることを證明するために全國を駆け回る新聞記者の奮闘記であつた。著者とされた秋田孝季も和田長三郎も實在しなかつたのだ。面白かつたけれど、讀んでゐて、イライラした。僞書を擁護するグループも現れ、そのやりとりにうんざりしたからである。その結果、

「十年間にわたって、真偽論争を繰り広げた結果、現在では 『現代人が書いた偽書』 ということでほぼ決着の感がある。」

『外三郡誌』 は、津軽には古代から中央政府に対抗する一大勢力があった。われわれは敗者ではなかったのだ──と説きました。だからこそ、屈折しがちな東北人の心に快く響いたのではないでしょうか。ある意味で、東北人の心に潜むコンプレックスを悪用したのです。そして、『外三郡誌』 の作者である和田さんは、東北人の歴史的地位を高めようとするあまり、逆に、東北独自の歴史と文化を僞史によって抹殺してしまったといえるのではないでしょうか。」

と、エピローグで述べてをられる。だまされたいと思ふ人がゐるかぎり、だますはうはいとも簡單にだまして甘い汁を吸ふことになる。と敎へられた。

 

 

三月十日(水)舊暦一月廿七日(丁巳) 晴、強風

 

今日も選別とかたづけ續行。應接間はすんだので、工房の奥の臺所部屋の三箱の本を選別。あとのこすは工房の三箱分。

日差しが強かつたのでふとんを干し、寢室を掃除。

乾燥と作業で負擔がかかつたか、右手親指の、ちやうど人差し指でものをつまむ部分がひび割れし、思ふやうに本をつかめず、痛くて苦勞した。

 

*處分を待つ、工房の選別がすんだ本 

 


 

三月十一日(木)舊暦一月廿八日(戊午) 晴

 

今日も選別とかたづけ續行。工房のすべての本の選別が終了した。思つたよりのこしておく本が多かつたが、どうにかおさまるくらゐにとどめられたと思ふ。

ただ、大鉈を振つたといつても、關心のある人物についてはそれが甘く、例へば、法然、親鸞、一遍。それに一休と良寛については手放せない書物が多い。文學では、西鶴に芭蕉、一茶。近年では、歴史上いちばん會ひたい人物は渡邊崋山だと言ふ森銑三さん。

他には、文庫本で、山田風太郎、半村良、小松左京、原尞、黒川博行の大部分。それに藤沢周平は全著作。

日本古典文學では、文庫本・影印書・和本とは別に、説話文學、紀行文學、軍記文學をそれぞれまとめてある。つまり 《變體假名で讀む日本古典文學》 の讀書豫定は變へてゐないし、『源氏物語』 を靑表紙本で讀み通すことも豫定どほり。

忘れるところだつたが、神學書も本箱の二棚ほどはのこせた。

といふわけで、本の選別については、あとは書齋の和本をのこすのみ。また雑多な文庫本(これがけつこう多い)は種別するのにてまどりさうだ。が、おひおひ樂しみながらやればいい。少々動きすぎて、疲れがたまる前にやすみをとりたい。

 

東日本大震災から十年目の今日、ぼくは大川小學校の悲劇を思ひ浮かべた。大震災の津波で兒童・敎職員八十四人が死亡・行方不明になった、宮城縣石卷市の舊大川小學校での出來事である。地震後、避難もせず、五十分間にわたつて校庭で待機(?)してゐたところに、津波が押し寄せ、兒童も敎師も飲み込まれてしまつたのであつた。

これはぼくは象徴的なできごとだとつねづね考へてゐる。我が國が崩壊するシミュレーション、といふか實例のやうなもので、従はせる者も從ふ者も、自分で考へて判斷し、行動できない優柔不斷によつて全滅するといふ樣を彷彿とさせるのである。

 

 

三月十二日(金)舊暦一月廿九日(己未) 曇天

 

一週間ぶりに外出した。まづ、先日テレビで紹介されてゐた柴又の帝釋天參道の大和家で天丼を食べた。味は濃くてぼく好みだつたけれど、エビ二本のほかに野菜が少ないのが殘念だつた。エビもころもばかりでものたりない!

金町から千代田線、御茶ノ水驛から中央線で高圓寺。久しぶりといふか今年はじめての高圓寺の古本市である。だが、収穫なし。

つづいて御茶ノ水驛に引き返し、神田の古本市を訪ねた。が、ここも収穫はなきに等しく、文庫本一册のみ。また古書店街では、二册の文庫本。今日はこの三册のみ。

ぼくにはわるいくせがあり、同じ本を何度も買つてしまふことがある。今日も三册のうち二册がさうだつた。石川淳の 『文林通信』(中公文庫) とラフカディオ・ハーンの 『日本の面影』(角川文庫) がさうである。

じつは、こんどの大量の本の處分にあたつては、「石川淳選集」(岩波書店 全十七巻) と 『小泉八雲作品集』(恒文社 全十二巻、平井呈一訳) も手放すことにしたので、その中の氣になる一册、二册をとつておくことも考へないではなかつたけれど、まとめて出すことにした。それで、ちやうど氣がかりなこの二册が發見されたわけで、求めないわけにはいかなかつたのである。

また、同じ本を再度買ふもう一つの理由がある。同じ文庫本でも發行された年によつて、舊字舊假名だつたのが、現行の表記に改められてしまふ場合がよくある。そこで、現行本を手にしてゐるものについては、舊字舊假名の舊版本を發見したときには、あへてを再び求めてしまふといふわけである。

例へば、高村光太郎の 『美について』(角川文庫) がさうである。十二版までは舊字舊假名だつたのが、以後の版では現行の表記に改められてしまつてゐる。當然、舊字舊假名の舊版を探して讀んだことは言ふまでもない。一九九二年三月のことである。

ところで、買ひ求める氣もないのに出かける古本市回りは、たしかに味氣ないけれど、まあ、散歩であることと、もしかしたら本當にいい本に出會へるかもしれない期待だけは持つてゐたい。それより、美味いものを食ひに出かける口實であることのはうが重大だ!

今日の歩數・・・八三四〇歩

 

*大和家の天丼と、歸路食べた、すし屋の海鮮酢の物。グラスビールがうまかつた。

 

 


 

 

三月十三日(金)舊暦二月一日(庚申・朔) 雨、一時はげしい雷

 

夕べ、北方謙三の 『眠りなき夜』 讀了。解説で、内藤陳さんが 「読まさずにはいられない!」 と大騒ぎしてゐるやうに、じつにハラハラドキドキで面白かつた。毛倉野時代に指先を切斷して入院してゐるときに讀んで以來である。

 

今日は和本の選別を行つた。といつても量が少ないので短時間で終了し(三分の一ほどに減つただらうか)、つづいてそれぞれに(今日の寫眞にあるやうに)表題の名札を作つた。

のこした本について言へば、ほとんどが江戸時代の印刷で、なかには手書きの寫本もある。内容も貝原益軒の 『大和俗訓』 と 『養生訓』、石田梅岩の 『都鄙問答』、手島堵庵の 『知心辨疑』、柴田鳩翁の 『鳩翁道話』。

かはつたところでは、神坂次郎さんが書かれた、『だまってすわれば―観相師・水野南北一代』(新潮文庫) で知られる、水野南北の 『相法脩身録』。

その他、室鳩の 『駿河臺雜話』、そして、本居宣長の、『歴史紀行 一 飛鳥・藤原京編』(二〇〇九年十月) で活躍してもらつた 『菅笠日記』 などなどである。

日ごろ手にとるのは、『蜀山百首』 や 『道家百人一首』 だらうか。

佛敎の本も多く、法然、親鸞、一遍、一休の著作、『妙好人傳』、その他。『眞宗安心 極樂道中獨案内』 などの信仰書も多少はのこした。

よめるとふんで買ひ求めたのは、みな變體假名で書かれてゐたからである。漢字にはたいがい假名がふつてある。ただ、すらすらよめるものもあれば、悔しいくらゐよみ解けない假名もある。むろん内容の難しさもあるから、まことに良い頭の體操になる。

いよいよ明日、選別し終つたすべての本と別れなければならない。身邊整理ができるのはありがたいけれど、またさびしくもある。ただ、明日だけで運び切れるだらうか?

 

 

 

 

三月十四日(日)舊暦二月二日(辛酉) 快晴、強風

 

夕べ、『眠りなき夜』 につづいて、藤沢周平の 『霜の朝』(新潮文庫) をよみはじめた。これも再讀だつたが、よんでよかつた。胸があつくなり、なみだが押し出されてくるやうな感動を、久しぶりに味はつた。

 

午後一時過ぎ、水たま書店さんが前回と同じくお二人で來られた。前回は輕のワゴンだつたけれど、今日は中型のワゴン車。しかし用意しておいた本の半分しか運んで行けなかつた。

最初に、應接間の古記録・大日本史料を出し、つづいて、二階の書齋と書庫からでた十三籠+ケースに入つた河内本源氏物語。さらに、初めに選別した本を詰め込み、友人たちにも處分を手傳つていただいた中村莊の部屋の八分目ほど出したところでワゴン車が滿杯となり、のこされた工房の本はまるまる次回といふことになつた。

今日でやつと斷捨離、といふか身邊整理がはかどりはじめてきたことを實感できるやうになつた。

 

 

三月十五日(月)舊暦二月三日(壬戌) 晴

 

藤沢周平の 『霜の朝』 とともに、整理中に目にとまつた岩波文庫の 『雲萍雑志』 が面白さうなので手に取つた。

「柳澤淇園(17041758)の作として、1843(天保14)年刊行された随筆書。教訓を主眼としたもの」とされてゐるさうであるが、解説者の森銑三さんが、「文章は平明暢達、どの話も、興味深い例話を豐富に擧げてゐて、一種の説話集とみることもできる」 と述べられてゐるのでよみはじめたたら、たしかに敎へられる内容である。

たとへば、「夫婦の中のしたしみも禮あるうちは珍らかにして、その情至つて深く又厚し。禮を失ふ時は、その情自然と薄くして、離別もまた遠きにあらず。」なんていふのは、身につまされる!

 

 

三月十六日(火)舊暦二月四日(癸亥) 曇天のち晴、あつい

 

併読書がもう一册ふえてしまつた。二回目のワゴンで運び去られるはづだつた文庫本のなかに、小林勇著 『彼岸花』(講談社文芸文庫) が目にとまつたのだ。『蝸牛庵訪問記』 をよんだあとでもとめたもので、例のごとくそのまま埋もれてしまつてゐたのだつたが、今朝ふと目に入つてきたので手にとつた。

内容は、「その生涯を通して、優れた才気と誠意で学者、芸術家ほか多彩な人々の信頼を得、驚嘆すべき多くの出会いと豊かな交流を持った名編集者・小林勇。幸田露伴、寺田寅彦、小宮豊隆、安倍能成、野呂栄太郎、名取洋之助、中谷宇吉郎、斎藤茂吉、小泉信三、渋沢敬三等々、一筋に生きた人々の美しさ、勁さ弱さを尊重し、愛惜する。33人の偉大で慕わしい人々への鮮やかなレクイエム」 とある。

その冒頭の 「哀惜名取洋之助」 をよんで、岩波寫眞文庫の寫眞は名取洋之助が撮つたものだといふことをはじめて知つた。だうりで、白黒だが、とてもいい寫眞ばかりだと思つた。

それと、『源氏物語三十五〈若菜下〉』(靑表紙本) も途中からだがよみ出してゐる。紫の上が出家を願ひ、それにたいする源氏のことばと、源氏の女性觀がのべられるあたりである。

 

 

三月十七日(水)舊暦二月五日(甲子) 晴

 

藤沢周平著 『霜の朝』(新潮文庫) 讀了。

『雲萍雑志』 と 『彼岸花』 も併讀。

ちよいと趣向をかへて、やはり埋もれてゐたなかから發見した、藤原審爾著 『狼よ、はなやかに飛べ』(角川文庫) もよみはじめる。ワイルドで面白い。レオナルド・ディカプリオが出演した “レヴェナント 蘇えりし者” を思ひ出した。

 

水たま書店から電話があり、一回目と二回目で運び出した本の買ひ取り金額を知らせてきた。期待してゐたより多いか少ないか、そこは不問に付しておくことにして、ただ、ぼくが求めてきた本は、ほとんどが古本なので、高く買ひ取つてくれと言ふはうが無理なのである。もちろん中には古本として高價な本もあつたはづで、こまかく言へばきりがない。氣持ちよく了解したことは言ふまでもない。

 

 

三月十八日(木)舊暦二月六日(乙丑) 晴

 

小林勇著 『彼岸花』 をよんでゐたら、著者が「豊かな交流を持った」學者や作家の著書がよみたくなつた。たとへば、幸田露伴の 『運命』 や 『連環記』、永井荷風の 『雨蕭蕭』、また 『狩野亨吉遺文集』。露伴の文庫本は、選別し終つた束のなかから探し出したりして、一汗かいた。

『狩野亨吉遺文集』(安倍能成編 岩波書店) はアマゾンに出てゐたので、すぐに注文した。安倍能成が、「貧に安んじ孤独に徹して生涯を終えた狩野の昔の教え子たちを語らい、募金して墓を建て、その余りの金を基にして作ったのが、この遺文集であった」といふ本である。その中の 「安藤昌益」 を是非よんでみたい。

「亨吉」は、かうきち(こうきち)とよむらしい。

 

 

三月十九日(金)舊暦二月七日(丙寅) 晴

 

今日は、母がデイサービスに行つたあと、妻に綾瀨驛まで送つてもらつて出かけた。新御茶ノ水驛下車、まづ古書會館を見學。目ぼしい本はなかつたが、きはだつてゐたのは、良寛、西郷隆盛、會津八一關係の著作が大量にでてゐたことだ。もしやぼくが出した本ではないかと思つてしまつたくらゐである。それでも、ぐつとおさへて、中公クラシックスの 『良寛道人遺稿』 と、吉野秀雄の 『良寛』(ちくま学芸文庫) だけを求めた。

次いで驛まで坂道をあがり、例の驛前ビル地下の“誠鮨”でランチのちらし壽司をいただいた。今日も美味かつた。

それから水道橋驛まで電車に乘り、古本屋街を歩きはじめたのだが、考へたら、ひと月前の古本散歩と同じコースであつた。

だが、今回最初に訪ねたのは西秋書店であつた。日本の古本屋で檢索したら、小林勇さんの著書が何册もみられたからである。たづねると、二階の倉庫のはうから何册も出してきてくださつたので、その中から、『遠いあし音』 と 『隠者の』、それに、『一本の道』 の三册をいただいた。しかもまたおまけをしてくださつた!

よみたかつたのは、『隠者の』 のなかの、「隠者の〈小説狩野亨吉〉」 だつたので、『彼岸花』 が終りしだい讀むつもりである。

今日はぶらぶらと古書店街を歩き回り、ブックカフェ二十世紀で一時間ばかり休んだほか、こまめにのぞいた店で、めづらしい文庫本を何册か見つけてしまつた。

幸徳秋水の 『東京の木賃宿』(アテネ文庫) なんて知らなかつたが、六〇頁にも満たない文庫本であり、しかも舊字舊假名である。なんといつても、編者の解説が半分ほどの分量があり、なんだかこれが興味深い。内容も、イメージする幸徳秋水とは似合はない 「東京の木賃宿」 と 「世田谷の襤褸市」、そして 「大逆事件の眞相」 である。

それと、やはりわるいクセがでてしまひ、すでにあるのに、柳田國男の 『一目小僧その他』(角川文庫) の舊版(舊字舊假名)を買つてしまつた。

さらに、店頭に積まれた岩波写真文庫が目に入り、そのなかに、名取洋之助が撮つた 『麦積山』 が見つかつた。「雲南や敦煌の石窟は、すでにわが国にくわしく紹介されているが、麦積山石窟を訪れ得た日本人は今までになかった」といふ石窟のはじめての紹介である。いやあ、いい佛像群で、敦煌よりもぼくはいいやうに感じた。金剛力士像を見ると、わが國の寺々に見られる像はこれを模倣したとしか考へられない。修道士のやうな童子の像、歌舞伎役者が見得をきつてゐるやうな美しい人物像もある。一九五六年秋の撮影といふから、ぼくがまだ九歳のときだ。現在はどうなつてゐるのだらう。

夕食は、アルカサールの和風ステーキ。どうにか完食できて、だいぶ力がついた。

今日の歩數・・・八三二五歩

 

 

三月廿日(土)舊暦二月八日(丁卯・春分) 晴のち曇天

 

今日は終日讀書。しかものんんびりと猫とたはむれたり、お菓子をつまんだり、横になつたり、ときには文庫本を整理したり、そしてやうやく小林勇著 『彼岸花』(講談社文芸文庫) が讀み終つた。

「愛惜する、三十三人の偉大で慕わしい人々への鮮やかなレクイエム」 とあるこの本は、一氣よみはできない。味はいつつ、ときにはあひだをおいてよみすすむしかない。味はひ深い本だつた。 

 

 

三月廿一日(日)舊暦二月九日(戊辰・上弦) 雨

 

夕べ、『彼岸花』 が讀み終りしだい、同じ著者の 「隠者の〈小説狩野亨吉〉」(『隠者の』 所収) をよみはじめた。

狩野亨吉は、ハーバート・ノーマンの 『忘れられた思想家』 にさきだちて、といふかノーマンが狩野亨吉の著書によつて知つたのだが、その安藤昌益を發掘した人物であり、その思想をもつて生涯を生きたといはれてゐる。

「この世の中はすべてが不合理で満たされている。身の廻りだけでなく、日本もシナも、恐らく世界中が不合理、したがって不正不義が占領している。正しくない者が権力を持ち、多くの人民が苦しんでいる。何故か。これを追放して正しい社会を作るにはどうしたらよいか」 と訴へた安藤昌益にならつて生涯をおくつた狩野亨吉。

没後、その狩野亨吉晩年の隠された生活、秘められた趣味、といふか性癖が見つかつたといふはなしが興味深かつた。

また、藤原審爾著 『狼よ、はなやかに飛べ』(角川文庫) 讀了。狼や熊、犬たちが活躍する、ジャック・ロンドンの 『野性の呼び声』 を彷彿とさせる内容の短編集だつた。

 

夕方、佐久にすむ弟が、明日から銀座の畫廊ではじまる個展に顔をだすためにやつてきた。本の處分のことを話すと、何册か選んでゐたやうである。

 

 

三月廿二日(月)舊暦二月十日(己巳) 曇天時々日差し

 

日中、風呂に入り洗髪する。

小林勇著 『遠いあし音』(文藝春秋新社) をよみはじめ、『雲萍雑志』 は繼読。

注文した、安倍能成編 『狩野亨吉遺文集』(岩波書店) が屆く。

 

 

三月廿三日(火)舊暦二月十一日(庚午) 晴

 

慈惠大病院へ通院。心電圖檢査では不整脈がみられず、良好かと思つたら、血液檢査のBNP値が極端に惡くなつてをり、がつかり、といふよりやはり鹽分をとりすぎたのか、それとも本の處分で動きすぎたのか、と反省する。

それと、聞きたかつた、コロナのワクチン接種の可否についてと、臺所にIHクッキングヒーターを設置してもさしさわりないかどうかについては、兩方問題ないとの返事であつた。

歸路、新橋まで歩いて、驛前のSL廣場でマキさんと待ち合はせる。今日はどこで食事をしようかと、銀座方面に向つて歩き出し、結局、天龍で餃子にエビチリにやわらかい焼きそば、それにグラスビールをいただいた。

ところが、おいしく食べられたのはよかつたけれど、アンテナショップ(熊本縣・石川縣・廣島縣)めぐりをしてゐたら苦しくなり、すぐに歸路についた。ビールがからだに障つたにしても、やはりBNP値があがるわけだと思つた。

今日の歩數・・・八一四〇歩

 

 

三月廿四日(水)舊暦二月十二日(辛未) 晴

 

すべての本を選別したら、のこされた本は一割ほどであらうか。中村莊の工房の本も、必要なものはわづかで、母屋の書齋と書庫のはうに移せる程度になり、中村莊の二部屋とも今月末でカラになる。

書齋と書庫の本箱にも餘裕がうまれ、整理するにあたつて、同種のものは一所におさめるやうにしたので、なにがどこにあるか、一目見て取り出せるやうになつた。今までは、埋もれてゐたり、陰になつて見つけにくかつただけではなく、再び買つてしまつたりしてゐたのだ。氣持ち的にもすつきしだした。

精選した木工の本や民家の本、ジャズやカメラ・寫眞集、路上探検などの本も見えるところにおさめたので、動き回つてゐたころの氣分がわきあがつてくるやうで、これでさらに元氣がでてくることを願ふばかりである。

 

このところ、『源氏物語三十五〈若菜下〉』(靑表紙本) を順調によみ進んでゐる。紫上が出家をのぞみ、柏木が、朱雀院の女二宮(落葉宮)と結婚したばかりだといふのに、源氏の正妻の女三宮と密通、たうとう紫上が危篤におちいつたあたりまで進んだ。

また、柳澤淇園著 『雲萍雑志』(岩波文庫) も最終卷の卷之四にはいる。卷之三には、こんなことが書かれてあつた。

「易に云ふ、財寶を倉に納めて守らざるもの、是は盗人に奪ふことを敎ふるなり。化粧して美服を著しぬる女は、我を犯せといふにひとしとあり。愼まずんばあるべからず」

 

 

三月廿五日(木)舊暦二月十三日(壬申) 曇天、一時雨

 

柳澤淇園著 『雲萍雑志』(岩波文庫) 讀了。

つづいて、幸田露伴の 『運命』(岩波文庫) をよみたいと思ふが、なにせこちらの敎養といふか素養が問はれるやうで、ちよいと腰が引けてしまふ。

小林勇著 『遠いあし音』(文藝春秋新社) もよみ進む。著者は岩波書店の編集者とは言へ、じつに多くの學者や作家とつきあひ、その方々の死にたちあつてゐる。驚きつつも、興味津々である。 

 

 

三月廿六日(金)舊暦二月十四日(癸酉) 晴のち曇り、風

 

今日は古本散歩。神保町を見て回り、その後町田まで足を延ばして馬刺しを食べる豫定をたてた、のはいいけれど、はちまきで天丼を食べ、古書店街を歩いてゐたら、まためまひがはじまり、急遽歸路についた。今日はビールを飲んでゐないので、わけがわからん。

神田の古書會館は初日で、しかも混みあつてゐて、だいぶ心配した。それで、また舊字舊假名の文庫を數册求めただけで外にでた。

買ひ求めたのは、やはり現代表記にかへられたのは持つてゐるが、舊字舊假名本の新渡戸稲造著 『武士道』(岩波文庫)、テオフラストス著 『人さまざま』(同)、キケロ著 『友情について』(同) の三册。みな一〇〇圓であつた。

また。八木書店で、先日たしかめたわが藏書には缺けてゐた 『續群書類從 第二十五輯上 武家部』 が古本として賣つてゐたので求めた。

 

今日は外出だから、薄つぺらな岩波文庫の 『運命』 を持つて出た。ところが、頁數はわづかでも、なかみは濃くてむずかしい。中國の明の時代を題材にしたはなしだから、人名地名に難解な漢字がつかはれてゐるのは仕方ないとしても、序文だからだらうが、何を語ろうとしてゐるのかチンプンカンプンなのである。

ただ、ときたま 「測り難きの數を畏れて、巫覡卜相(ふげきぼくさう)の徒の前に首を俯(ふ)せんよりは、知る可きの道に從ひて、古聖前賢の敎の下に心を安くせんにはしかじ。」 あるいは、「先哲曰く、知る者は言はず、言ふ者は知らずと。」 などとあり、さらにすべての漢字にふりがなが振つてあるので、こえを出してよめるのがいい。

 

 

今日の歩數・・・五一七〇歩

 

三月廿七日(土)舊暦二月十五日(甲戌) 晴のちくもり

 

昨夜、小林勇著 『遠いあし音』 讀了。

『源氏物語三十五〈若菜下〉』 をよみ進み、紫上の苦しみやうは、なんと六條御息所の物怪がとりついてゐたことが判明。この物怪と源氏のやりとりが面白い。その源氏が、妻の女三宮のもとで、柏木からの手紙を發見。二人の密通について氣がついたからさあ大變。

また、幸田露伴著 『運命』 もよみ進むが、じつに忍耐を要する。やつと本筋がみえてきたところ。

 

 

三月廿八日(日)舊暦二月十六日(乙亥) 曇天のち雨

 

昨夜、入れ齒の支への差し齒がとれてしまひ、今日いちにち思ふやうに食事がとれずにつらかつた。

終日、〈若菜下〉 をよみ進む。

 

 

三月廿九日(月)舊暦二月十七日(丙子) 晴

 

朝一で齒醫者に行き、とれた差し齒を入れていただく。

それで、晝は、お花茶屋のえびす亭でスーラータンメンを食べることができた。

幸田露伴著 『運命』 と、〈若菜下〉 をよみ進む。

 

 

三月卅日(火)舊暦二月十八日(丁丑) くもりのち曇天

 

今日一日で二册よみ終へた。『源氏物語 〈若菜下〉』 と 『運命』 である。

〈若菜下〉 は、『源氏物語』 の第三十五帖。しかも、最も分量があり、靑表紙本で三〇三頁。のこるなかで大部の 〈総角(あげまき)〉 は三〇〇頁までいかないから、これで、物語の大きな峠を越えたといつてよいだらう。後半は、物語が流れるやうで面白く、一氣によんでしまつた。變體假名にはなれてきたが、ひと仕事終へた感じである。

つづいて、第三十六帖 〈柏木〉 をよみはじめる。

幸田露伴著 『運命』 は、小林勇さんの 『彼岸花』 だつたか 『遠いあし音』 だつたかのなかで、ある學者が露伴の最高傑作はなにかと問はれ、即座にこたへたのがこの 『運命』 であつた。それでよみはじめたのだけれど、筋を追ふのが精一杯で、語釋まで思ひが追ひつかなかつた。

内容は、「中国明代に材を取り、壮大な構成と絶妙の行文によって露伴(18671947)の最高傑作とあおがれる歴史小説。太祖が崩じ孫の建文帝が即位するや、叔父燕王は兵を起して王位を奪い永楽帝となるが、長い在位のあいだ1日とて安穏の日はなく、かえって流浪の建文帝は平和な一生をおくる。」といふもの。とにかく露伴といふ人は博覽強記にちがひない。

 

 

三月卅一日(水)舊暦二月十九日(戊寅) 晴

 

午後一時過ぎ、水たま書店さんが前回より一回り大きなワゴン車で來られ、中村莊にのこされた本をすべて運び出してくれた。

ともかく、なんとも氣分のいいお二人で、水たま書店さんに買ひ取つていただいてほんとうによかつた。

今日で本の處分がすみ、やつと身邊整理の大きな山を越えた感じである。

 

昨夜からよみはじめた藤沢周平さんの 『よろずや平四郎活人剣(上)』、おもしろくて一日で讀破! 下にはいる。一九九四年二月に讀んで以來二十七年ぶりの再讀だが、幸せな氣分になる。

 

 

*お花茶屋えびす亭わきの曳舟川(暗渠)のさくら と 處分本運び出し中の部屋の前で憩ふノラネコ三匹。左より、ミケ、ブンゴ、タマ

 


 

 

お知らせ・・・長年使用してきた 「ひげ日記 讀書の旅」 ですが、〈ジンドゥーアカウントのパスワード変更のお願い〉に應へ、入力の條件に從つて、パスワードを變更しようとしたけれど、どういふわけか何度試みても登録されません。アドレスが違ひますなんて言はれても、アドレスを變へてたわけでもなし、ログインできないのでは、以後使ふことができさうもありません。本日が期限なので、これでおしまひになるかも知れません。長らくおよみくださつてありがたうございました。

ひげ淳・中村淳一  2021年3月31日

 

 

 

三月一日~卅一日 「讀書の旅」 ・・・』は和本及び變體假名・漢文)

二日 大佛次郎著 『源実朝』 (徳間文庫)

四日 北方謙三著 『逃がれの街』 (集英社文庫) 再讀

同日 光瀬龍著 『歴史そぞろ歩き』 のうち 〈「東日流外三郡誌」考〉 (大陸文庫)

九日 斎藤光政著 『偽書「東日流外三郡誌」事件』 (新人物文庫) 

十二日 北方謙三著 『眠りなき夜』 (集英社文庫) 再讀

十七日 藤沢周平著 『霜の朝』 (新潮文庫) 再讀

廿日 小林勇著 『彼岸花』 (講談社文芸文庫)

廿一日 小林勇著 「隠者の〈小説狩野亨吉〉」 (『隠者の』所収・文藝春秋)

同日 藤原審爾著 『狼よ、はなやかに飛べ』 (角川文庫)

廿五日 柳澤淇園著 『雲萍雑志』 (岩波文庫)

廿六日 小林勇著 『遠いあし音』 (文藝春秋新社)

卅日 紫式部著 『源氏物語三十五〈若菜下〉』 (靑表紙本 新典社)

同日 幸田露伴著 『運命』 (岩波文庫)

卅一日 藤沢周平著 『よろずや平四郎活人剣(上)』 (文春文庫) 再讀