三月十六日(月)舊二月廿二日(戊午・下弦) 晴、北風強く寒い

 

午前中は、猫たちの相手をしながら讀書。テレビによると、株價が一六〇〇〇圓代にまで下落したといふ。どういふことなのだらう? 

ふりかへつてみると、結婚した一九七三年以來、オイルショックがあり、バブル崩壊があつたりしたけれど、ぼくたちの生活のスタイル、といふか、内實は少しも變はらずにきた。現在も、だいぶ騒がしいけれど、マスクやトイレットペーパーは常備してゐるものだし、食べるものにも一應不自由しない生活を維持できてゐる。でも、人賴みの生計をたててゐる人は大變なのだらう。

 

晝は、妻とともにお花茶屋の喜久家に行き、ぼくはカレーうどんをいただく。その歸り、龜有驛のガード下の商店街で買ひ物。今晩のおかずとともに、おせんべいなどの駄菓子を買つてもらふ。妻が言ふには、父と東部地域病院に通院してゐたときには、診察が終はると必ずこの商店街で買ひ物をし、父がほしいといふ物を買つてあげたのよ、と言ふ。ふと、父の喜ぶ顔が浮かんだ。 

 

森 詠著 『双龍剣異聞 走れ、半兵衛〈二〉』 讀了。〈三〉に入る。 

そこで、古井由吉著 『仮往生伝試文』 がどういふものか、はじめの數頁を讀んでみた。内容は「往生伝」についてで、增賀の逸話をとりあげてゐるやうなのだが、何を言ひたいのかがわからない。いや、自分ではわかつて書いてゐるのだらうけれど、いきなりぼそぼそと獨り言のやうで、先を読んでみたいと思はせないのである。まるで度の合はない眼鏡をかけて讀んでゐるやうである。この人はつまらないといふぼくの勘はあたつてゐたやうだ。一言で、面白くない! 

また、『源氏物語〈胡蝶〉』(靑表紙本) と、『宇治拾遺物語 卷第四』(江戸時代の和本) を少しづつ讀み進んでゐる。〈胡蝶〉では、「右大将(髭黑の大將)が初登場。 

アマゾンを通して注文した、『人生をひもとく日本の古典 第五卷 いのる』(岩波書店) が屆く。これで、先日求めたこのシリーズが揃つた。ちなみに、第一卷は 「からだ」、第二卷 「はたらく」、第三卷 「つながる」、第四卷 「たたかう」、第六卷 「死ぬ」。 

 

 

三月十七日(火)舊二月廿三日(己未) 晴

 

午前中は、書齋で讀書。午後は橫になる。 

せつかくの增賀(ぞうが)の往生譚を小難しくしてしまつた腹立たしさを解消するには、面白い往生譚か、傳記を讀むしかない。なんとも後味がわるい。それで、國史大系の 『元亨釋書』(吉川弘文館) と 宮元啓一著 『日本奇僧伝』(ちくま学芸文庫) を出してきて開いてみた。『元亨釋書』 では、「多武峰增賀」として一頁にわたつて記されてゐた。漢文であるが、ざつと文字をたどつたところ、『仮往生伝試文』 で述べられてゐる晩年の奇行は記されてゐない。

 

さらに 『日本奇僧伝』 を見たら、西行よりも多くの頁をさいてその生涯についてしるしてゐる。冒頭には、「わが国に奇行の人多しといえども、ここに登場する增賀ほど数多くの、しかも痛快無比の逸話の持ち主はいないであろう。まさに奇僧中の奇僧というべき人である」とある。さうだらう、それなのに小難しくしてしまつて! 

それで、ペラペラながめると、たくさん原文からの引用がなされてゐて、その文獻をすべてあげると、『大日本國法華經驗記』、『今昔物語』、『發心集』、『撰集抄』、『宇治拾遺物語』、『續本朝往生伝』、『扶桑隠逸伝』 の七冊である。『扶桑隠逸伝』 以外はすべて手もとにあるが、今ただちにすべてにあたる餘裕がないので、『今昔物語』、『發心集』、『撰集抄』、『宇治拾遺物語』 の文庫本四冊を出してきて、讀んでみることにした。すでに讀んだものもあるが、忘れてしまつてゐる。 

まづは、宮元啓一著 『日本奇僧伝』 の「增賀」を讀み、つづいて、著作年代順に、『今昔物語』、『發心集』、『撰集抄』、『宇治拾遺物語』 を讀んでみておどろいた、・・・

 

注文した、渡辺崋山著・藤森成吉解説 『スケッチとデッサン』 (岩崎美術社 双書美術の泉〈16〉) が屆く。 

 

 

三月十八日(水)舊二月廿四日(庚申) 晴、暖かい

 

今日は出かけようと思つた。だが、綾瀬驛に着いても、まだ行き先が決められず、早く來た電車に乘ることにしたら、上りが來てしまつたので、では、御茶ノ水驛乘り換へで、東京散歩のつづきを歩かうと決心した。 

前回が昨年の十一月十八日だつたから、ちやうど四ヶ月めにあたる。〈コース番號33〉のコース名と内容は─「寺町散歩 上高田 新井薬師前駅~東中野駅 上高田の寺町には、明治末~大正期に浅草・四谷・牛込から移転した寺が集まっており、吉良上野介や新井白石の墓もある。このコースではまず新井薬師によってから寺町をめぐる。〔所要〕2時間」。

 

といふことで、前回は中野の南部だつたが、今回はその北部である。スタートは、ガイドブックとは逆に、東中野驛から歩くことにした。スタートが一一時一五分、東中野ギンザ通りを歩きだして思ひ出した。この道は早稻田通りにぬける商店街で、中野教會を訪ねた歸りに何度も通つた道だつた。人出は以前と少しもかはらず。古本屋が一軒あつたはづなのだが、どうも見あたらない。なくなつてしまつたみたいだ。

 

早稻田通りに出ると、左手向かひ側に、中野驛方面にかけてお寺がつづく。さういへばあつたなあといふことくらゐの記憶しかない。ところが、このあたりのお寺はみな明治大正期に淺草・四谷・牛込から移轉してきた寺だといふ。しかも有名人のお墓があるといふので、きょうは、一軒一軒(?)丁寧にその墓地を探索することにした。ガイドブックには、どの寺に誰の墓があるなんて書かれてゐないので、直接にお寺を訪ねなければならないからである。

 

角から二軒目の源通寺には、歌舞伎脚本作者の河竹黙阿弥(一八一六一八九三)の墓所があつた(註一)。 

つづく高徳寺には、かの新井白石(一六五七~一七二五年)の墓。廣い墓所の中ほどにあり、探すのに苦勞した。墓石そのものは以外に小さい(註二)。 

さらに、中野教會の手前を右折して、いつたん住宅地に入り、先ほどの東中野ギンザ通りの延長上にあたる交差點を越えて行くと、願正寺。ここには新見豊前守正興の墓所。名前を聞いても分からなかつたが、その事績を知つてビツクリ。改めて見直した(註三)。 

次の宝泉寺にあつた、板倉内膳正重昌(一五八八~一六三八)の墓はどでかいわりにはなんだかもの寂しいたたずまひだつた。さういへば、このやうな人物がゐたなあといふ程度の知名度だが、歴史的には重要人物であることに間違ひない(註四)。 

そのとなりに位置する功運寺の墓地には、惡名高き(?)吉良上野介義央の墓。その石碑面には、「元禄十五壬午十二月十五日」と刻まれてをり、赤穂浪士の討ち入りの際に死去した史實を裏付ける金石文として貴重なものださうだ。それと、墓を圍むやうにして、「吉良家忠臣供養塔」と「吉良邸討死忠臣墓誌」が建てられてゐた。 

また、功運寺の墓地には、林芙美子の墓と、浮世繪師・歌川豐國の墓もあつた。

 

註一・・・黙阿弥は、鼠小僧次郎吉を義賊にした作品をはじめ、「三人吉三郭初買」や「白波五人男」などの盗賊を主人公とした生世話狂言で、世相を写実的に描く近代演劇への道をひらいた。 

註二・・・江戸前・中期の儒者・政治家。江戸生。木下順庵の門に入り学んだ。六代将軍家宣・七代将軍家継の時には幕政を補佐した。著書も多く、近世屈指の大学者と目される。主著 『読史余論』、『西洋紀聞』、『折たく柴の記』 など。 

註三・・・新見豊前守正興は、遣米使節の重責をはたした人物。安政六年(一八五九)外国奉行に抜擢され、さきに締結された日米修好通称条約の批准書交換のため、特派使節になる。万延元年(一八六〇)アメリカ船ポーハタン号に乗り、咸臨丸とともに品川を出港。ワシントンでアメリカ大統領に会見して大任を無事にはたし、大西洋経由で帰国したが、国内の情勢が急変し攘夷論が盛んななかで、正興は外国での見聞を生かす機会もなく、元治元年(一八六四)職を免ぜられた。 

註四・・・板倉内膳正重昌は江戸時代前期の大名。板倉勝重の三男。徳川家康につかえ、方広寺鐘銘事件では問題の鐘銘箇所をしらべて家康に報告、大坂冬の陣・夏の陣に参戦した。寛永十四年、島原の乱の鎮圧に出陣、松平信綱の援軍をまつのを恥じて総攻撃をかけ、寛永十五年一月一日戦死した。 

さう言へば、〈中仙道を歩く〉の最終日に、この「鐘銘」を訪ねて、實際にその件の文字に見入つたものだつた! 

 

*新井白石の墓(石造りの圍ひの中)と吉良上野介義央の墓 

 


 

 

以上で墓地めぐりは終了し、自動車道をそれてからは住宅地をぬいながら歩いた。お晝時なので食堂を探したけれど見あたらない。たうとう「藥師あいロード」に出てしまひ、それでも食堂はない。あつても休業の張り紙ばかりが目立つ。ついに新井藥師まできてしまひ、滿開の枝垂れ櫻を横目に見ながらちよいと休憩して驛まで急いだ。そしてやつとこさつとこで、そば屋を見つけたので飛び込んだ。小さい店だつたが、たのんだ天もりがとても美味しかつた。 

ゴールの新井薬師前驛には一四時一五分到着。正味九三二〇歩であつた。 

 


 

東京散歩は終つたが、ここからはバスに乘り、中野驛の手前の早稻田通りで降り、例の古本案内処といふ古本屋に入つた。ここはけつこういい本が揃つてゐて、今日も岩波文庫の戰前の版が目にとまつたので、『山家集』 と 『新古今和歌集』 を求めた。これらは、現在のちやちなのにくらべたら斷然愛着の湧く裝幀であり、『良寬詩集』 をはじめ、すでに持つてはゐても買ひ換へてしまふ。それが一册一〇〇圓といふ安さであつた!

 

中野驛までの裏通りを歩いたが、食店が犇めいてをり、けつこうな人出である。總武線で新小岩驛まで乘り、バスで歸宅した。 

今日一日の歩數は、一二四六〇歩であつた。 

 

また、歸宅すると、日本の古本屋を通して注文した、森銑三著 『改訂・寫眞版 渡邊崋山』(創元社) が屆いてゐた。もちろん、文章は歴史的假名遣ひで漢字は正字が用ゐられてゐる。文庫本もいいが、これは著者がこだはつた文字遣ひで讀みたい。 

森 詠著 『吉野桜鬼剣 走れ、半兵衛〈三〉』 讀了。つづいて、『遠野魔斬剣 走れ、半兵衛〈四〉』 に入る。

 

 

三月十九日(木)舊二月廿五日(辛酉) 晴、暖かい

 

今日は終日ぼ~つとして過ごした。昨日歩きすぎたかも知れない。 

『源氏物語〈胡蝶〉』(靑表紙本) 讀み進む。夕顔の娘・玉鬘にたくさんの男が群がつてきたのはいいとして、養父たる源氏が玉鬘に近より、言ひよるところは讀んでゐて見苦しかつた。 

 

 

三月廿日(金)舊二月廿六日(壬戌・春分) 晴、暖かい

 

今日は渡邊崋山の誕生の地を訪ねてきた。ついでに神保町の古書會館に立ち寄つたが、初日とあつてすごい人。まるでラッシュアワーである。コロナ騒ぎはどこ吹く風、濃厚接觸なんてものではなかつた。 

で、もしぼくがもし「陽性」になつたとしても、感染經路は口にしないつもりだ。たとへ、笞打、石抱、海老責、釣責にあはうとも・・・。でないと、唯一の樂しみの古本市まで止められてしまふ! 

まあ、そんなバカなと思ひながら、晝食は久しぶりにかねいちさんのうな重をいただいた。やはりお客が少ないやうで、一二時に入つてもだれもをらず、ぼくが食べ終はるころになつて一人入つて來られただけだつた。春分の日で休日だつたせいもあるのだらう。

 

渡邊崋山の誕生の地は、永田町驛から出て、すぐに分かつた。もう何度も通つたところだつたが、今まで顧みることもしてゐなかつたのだ。まあ、歴史なんてそんなものなのだらうと反省した。その場所は、二四六號線と内堀通りの角で、三宅坂小公園と呼ばれる、「平和の群像」の銅像の裏側に、ただ一枚の説明板があるだけだつた。それに比べて、背後には最高裁判所の威容、いや異常なたたずまひに感じた! 

ひとり見入つてゐると、大學を出たばかりのやうな數人の若者がやつてきたので、説明板を指しながら、つい渡邊崋山についてお説教をしてしまつた。バカにされてもいいと思つて話したら、二人ばかり熱心に聞いてくれて質問までされた。語つてよかつたと思つた。 

日差しが暑かつたが、半藏門までお濠沿ひに歩くと、國立劇場の前に出た。櫻が滿開だつたが公演は中止のやうだ。演題が「義經千本櫻」といふのだから皮肉なものだ! 

今日の歩數は、八一〇〇歩であつた。 

 

以下求めた本。 

『文学 季刊 第8巻・第1号 一九九七年冬 《南方熊楠》』 (岩波書店) 

南方文枝著 『父南方熊楠を語る』 (日本エディタースクール出版部) 

福岡 伸一著 『生物と無生物のあいだ』 (講談社現代新書) 

アインシュタイン&フロイト 『ひとはなぜ戦争をするのか』 (講談社学術文庫) 

 



 

 

 

三月一日~廿日 「讀書の旅」 ・・・』は和本及び變體假名・漢文)

 

三月一日 佐々木 譲著 『警察庁から来た男』 (ハルキ文庫) 

三月三日 佐々木 譲著 『警官の紋章』 (ハルキ文庫) 

三月四日 佐々木 譲著 『巡査の休日』 (ハルキ文庫) 

三月六日 佐々木 譲著 『密売人』 (ハルキ文庫) 

三月七日 佐々木 譲著 『人質』 (ハルキ文庫) 

三月十日 佐々木 譲著 『憂いなき街』 (ハルキ文庫) 

三月十二日 佐々木 譲著 『真夏の雷管』 (ハルキ文庫) 

三月十三日 今村翔吾著 『くらまし屋稼業』 (ハルキ文庫) 

三月十四日 森 詠著 『風神剣始末 走れ、半兵衛』 (実業之日本社文庫) 

三月十六日 森 詠著 『双龍剣異聞 走れ、半兵衛〈二〉』 (実業之日本社文庫)  三月十八日 森 詠著 『吉野桜鬼剣 走れ、半兵衛〈三〉』 (実業之日本社文庫)