二〇二〇年八月(葉月)一日(土)舊六月十二日(丙子) 晴

 

今朝はスッキリと目覺め、氣分もいい。朝からはれわたり空氣もさわやか。何日ぶりの太陽だらう。

さそはれて散歩に出た。古本と食事となれば神保町であるが、コロナ感染がいや増すなか、今日は柏に行き、太平書林を訪ね、そして担々麺をいただいて歸つてきた。

今日の歩數は、四二四〇歩。まあまあか、それでもからだがかるくなつた。

今日の収穫は、倉田百三の 『親鸞』(角川文庫舊版) と、北方謙三の 『魂の沃野(上下)』(中公文庫)、それに外山滋比古さんの 『「読み」の整理学』(ちくま文庫)。

 

なかでも、『「読み」の整理学』 は、柏驛前の喫茶店でついついよみふけつてしまつた! 讀書の根幹にかかはる問題がとりあげられてゐるのである。

「われわれは、既知を読んで、ものが読めると思っているけれども、それは未知を読むための準備段階であって本当に読んでいるとは言えない。未知を読むことは高度の知性、想像力のはたらきによるものであるから、ひとみな等しく、そういう読み方が出来る保証はまったくない。この本は、未知を読む読書の方法を考えようとするものである」

以上は序章の言葉であるが、讀んでゐてふと思ひ出したことがあつた。それは、ぼくが中學校に入學したばかりのときのことである。そのときぼくは病氣のために一年留年しての入學だつたのだが、英語の授業で、 This is a pen.  は、「これはペンです」と敎へられて、はじめそれが何のことかわからなかつた。こころの中にうかんだのは、「だから何なのだ」、といふ不可解な氣持だつた。これはペンです、「だから、それで?」、と、さらに思つたら、もうしらけてしまつて、おそらくそのときからぼくは語學に興味を失つたのだと思ふ。

語學と言へるのかどうか、變體假名を學びはじめたのは、目の前にひろげられた、「見ぬ世の人」の文を(『徒然草』第十三段)、當時の文字でなんとしてでもよみたかつたからだ。中學生のとき、讀みたいものが目の前にあつたら違つてゐたのかもしれない。

 

*久々の靑空と担々麺 

 


 

 

八月二日(日)舊六月十三日(丁丑) 晴

 

昨夜、外山滋比古さんの 『「読み」の整理学』 を一氣によんでしまつた。ところが、これは、以前にもよんだことがあるかもしれないと思つた。

「取扱説明書や役所へ提出する書類を読んで、何がなんだか分からない、という経験はないだろうか? 自分の知らないこと、未経験の内容の文章は読むのは難しい、それに比べ、知っていることが書かれている文章は簡単に読める。実は読み方には二種類あるのだ。論文など未知を読むベーター読みと既知を読むアルファー読み。頭脳を刺激し、読書世界を広げるベーター読みを身につける方法とは? リーディングの新しい地平をひらく書」

と、裏表紙にはあるのだけれども、現実的にはあまり役にたたないなと思つたことが、以前の記憶を呼び覺ましたやうなのだ。

たしかに、わかりやすい本ばかりよんでゐたのでは、つまり「既知を読むアルファー読み」ばかりしてゐたのでは、深い鑑賞によつて味はふ喜びはない。あたらしい世界を切り開いてゆく力をつけるためには「未知を読むベーター読み」を身につけなければならないのである。そのためには、素讀のやうな讀み方や、「古典の暗誦」が缺かせないといふ。

そもそも、母親にどのやうなことばをかけてもらつて育つたか、學校でどのやうな敎育がなされたかといふことが大問題なのだが、わからないものをくりかへしよむ訓練がなされないと 「さうか、わかつた」 といふよろこびを味はふことはないのだから、習慣的に「アルファー読み」ばかりを樂しんでゐるだけでは、ほんとうの讀書をしてゐることにはならないのである。といふことはよくわかつたが、だからといつて、「取扱説明書や役所へ提出する書類」がよめるやうになるかといふと、さうはいかないのではないかと思つた。

〈今こそ素読を〉の項の、「素読では、わからぬということがわかっている。これがベーター読みへの原動力となる。アルファー読みは、わかることはわかっても、わからぬことがわからない」、なんてところは、ちよいと禪問答のやうであるが、このひとことに本書のエッセンスがつまつてゐる。

 

 

八月三日(月)舊六月十四日(戊寅) 晴

 

今朝、定例齒科通院ののち、買ひ物に出る妻に靑砥驛まで送つてもらひ、古本散歩と洒落込んだ。ふだん利用することのない北総線に乘り、新鎌ケ谷驛のアクロスモール新鎌ヶ谷店で昨日から催されてゐる古本市をたずねたのである。

ところが、驛に降り立つてみると、右も左もわからず、驛前にあるといふのに、二人のおばさんにたずねてやつとそのモールとかいふショッピングセンターにたどりつくことができた。古本市といつても、それほど廣いスペースではなかつたが、文庫本が多く、時間をかけて見てまはり、以下の數册を手に入れることができた。

山本著 『続「奥の細道」を歩く』(柏書房)、丸谷才一編 『探偵たちよ スパイたちよ』(文春文庫)、高嶋哲夫著 『サザンクロスの翼』(文春文庫) と 『トルーマン・レター』(集英社文庫)

歸路、新鎌ケ谷驛で交差してゐる東武線で柏驛に行き、食事をしてから歸宅した。

今日の歩數は、五四八〇歩であつた。

 

 

八月四日(火)舊六月十五日(己卯・望) 晴、暑い

 

昨夜、藤沢周平の著作順で二十一番目の 『驟り雨』(新潮文庫) を讀了。一九九三年八月に讀んでゐるから、二十七年ぶりだが、この短編集には記憶がある。とくに表題の「驟り雨」は感銘を受けた作品で、これだけを何度讀み返したことだらう。つづいて 『橋ものがたり』 をよみはじめる。

また、『源氏物語〈若菜上〉』 もすこしづつよみ進む。朱雀院が出家するにあたり、「母親のいない女三の宮」の行く末を案じて、だれを後見役(婿)につけたらいいか、夕霧や乳母たちに相談してゐるところである。

 

 

八月五日(水)舊六月十六日(庚辰) 晴、暑い

 

今日も暑かつた。ところが、猫たちは思ふほど暑がつてはゐなささうである。そんな猫たちにまとわりつかれながら、當然讀書はすすまず。でもなんでかはいいのだらう。

 


 

 

八月一日~卅一日 「讀書の旅」 ・・・』は和本及び變體假名・漢文)

 

一日 外山滋比古著 『「読み」の整理学』 (ちくま文庫)

三日 藤沢周平著 『驟り雨』 (新潮文庫) 再讀