十二月十二日(金)丁巳(舊十月廿一日 曇り

 

今日は、妻の提案で、虎ノ門にあるといふ、「菊池寛実記念 智美術館」に行つてきました。虎ノ門は、ぼくと付き合ふ以前から妻が勤めてゐたところで、懐かしさも手傳つて出かけたのでした。

ただ、「菊池寛実記念 智美術館」には、妻も行つたことがなく、そこに、篠田桃紅さんの作品あるのではないかといふ期待をもつて臨んだのでした。といふのは、雑誌で、この美術館が、桃紅さんの作品を買ひ入れたといふ情報を得たからでした。

銀座線の溜池山王驛から、六本木通りを歩き、途中の「桜坂」といふ坂をあがつて行くと、靈南坂教會がありました。ぼくは、かつて、ちよつと仕事をしたことのある教會なので、懐かしく、と目を向けると、その教會の前に、警察官による檢問所がたつてゐるではありませんか。いやあ、教會も警察の警備を要請するやうになつてしまつかのかと思はうとしたところ、そこは、考へたら、アメリカ大使館の裏手にあたつてゐたんです。

敵を作れば警備や防衛に神経質になることは必然的なことです。それは愚か者がやることです。敵を作らず、警備や防衛などと言ふ無駄な勞力や資金があれば、國民を豐に幸せにし、他國とも穏やかに付き合ふやうにつとめることこそ賢者のすることです。さうだ、ぼくたちは出がけに、投票をしてきたのでした。もちろん、敵を作らない政策が期待できる人物と政党に一票を投じてきました。

さて、檢問所の先に、「大倉集古館」があるので、そこにまづ寄つて、と門前に立つたら、今年の四月から四年間、改築のために閉館中でした。まあ、仕方がないので、目的地を目指しました。が、すぐ目の先でした。虎ノ門の一等地に廣大な土地を贅澤に、といふか無駄にといふか、豐にといふか、西洋館が一つと、脇に高層のノッポビルが建ち、そのビルの地下が美術館でした。庭の片隅には人口の木立があり、その中に茶室までしつらへてあるんです!

はたして、受付への通路の正面に桃紅さんの作品が出迎へてくれました。譯ありの無料で二人して入館し、地下に下りてゆくその螺旋階段の回りには、これまた桃紅さんの作品が惜しげもなく飾られてあつたのには驚きました。だつて、そこは壁ですから觸れるわけです。本物が貼られてゐたのかどうかは判明できませんでしたが、それだけで滿足でした。

しかし、開催中の「岡部嶺男 火に生き土に生き」展はどうでもいいやうなものでした。はつきり言つて好みではありませんでした、これは、ぼくと妻との共通した認識でした。ただ、岡部嶺男は、加藤唐九郎の息子であるといふことを知りました。

歸りは、「江戸見坂」を下つて虎ノ門病院の脇に出、特許廳の交差點角の頤和園(いわえん)でお晝をいただきました。頤和園の入つてゐるそのビルは、明産溜池ビルといつて、妻が勤めてゐた當時のジャスラックが入つてゐたんです。ぼくは忘れてゐたんですが、學生時代に妻によく食事につれていつてもらひ、この頤和園でもご馳走してもらひました。妻が言ふには、春卷きが美味しかつたとぼくが言つたといふのです。そこで、今日、指折り數へてみたら四十七年ぶりに、その春卷きを注文したところ、ランチタイムでは出してゐないと言はれてしまひました。それで、ぼくは担々麺、妻は五目焼きそばを美味しくいただいて歸路につきました。

 

今日の寫眞:桜坂(明治中期に新しく作られた道筋で、坂下に戦災まで大きな桜の木があったことからこの名がついた)。「菊池寛実記念 智美術館」門前。入館受付前にあつた、篠田桃紅さんの作品。實に大きくご立派です! 「岡部嶺男 火に生き土に生き」展看板。江戸見坂(江戸の中心部に市街がひらけて以來、その大半を眺望することができたために名づけられた坂である)。頤和園。

 




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