七月廿五日(土)壬寅(舊六月十日) 晴、今日も暑い

 

中仙道を歩く二十九回の三日目、最終日です。昨日と同樣、朝からいい天氣で、ホテル九階の食堂からの眺めはよく、比良山地が昨日よりはつきり見えました。

さて、街道歩きは、魔堂町西交差點からはじまりましたが、その交差點を渡つたすぐのところの民家の角に石碑が一つ。「住蓮房母公墓」と刻まれてゐます。住蓮房に會ふために京からやつて來たところ、昨日訪ねた「住蓮房首洗い池」で、すでに斬首されたことを知り、この魔堂で自害した母親の墓ださうです。

つづいて、町名のもとになつた、十王寺閻魔堂が現れました。あの小野篁作と傳はる閻魔像が安置されてゐるのださうです。が、一行は素通りです。はい。

さらに、出發してから二十分ほどで、大寶神社に着きました。その公園には芭蕉の句碑がありましたが、それよりも、神社の門と舞臺と本殿がとても素晴らしいものでした。大寶年間(七〇一~七〇四年)の創建と言ひますから、藤原京の時代ですね。靑銅の御神馬まで奉納されてゐました。境内の楠木もご立派!

さう、この邊は「綣(へそ)」といふ町名です。糸偏に卷くで、綣です。焔魔もすごいけど、綣もすごいです。「まといつく」といふ意味のやうですが、何に卷きつかうといふのでせう?

昔ながらの家竝みを進むと、今度は、木立に圍まれた伊砂砂神社で休憩。もう草津宿はすぐそこのやうです。

すぐに昔ながらの家竝みは盡き、繁華街に入つてきました。草津驛に通じる交差點のあたりに一里塚があつたやうですが、その痕跡も標石もありません。アーケード商店街をしばらく歩き、左に曲がると、覺善寺といふ寺院の門前に、「右東海道 左中仙道」の道標が建つてゐました。明治十九年に、草津川トンネルが開通以後、ここが東海道と中仙道との追分となつたところです。

しかし、江戸時代の追分は、草津川を越えた向かう側にありました。草津川はいはゆる天井川で、東海道で江戸に向かふ旅人は、わざわざ川を越えて中仙道側へ渡ることなく、川の手前で右折して石部宿から鈴鹿峠方面に出たんです。それが、トンネルができたおかげで近道をとり、追分が少しばかり中仙道側へ移動したと、かういふわけだつたんです。

それで、ぼくたちは、川の底を掘り抜いたトンネルを通つて、由緒正しい、中仙道の起點でもある追分とその道標の元に到着しました。午前一〇時一〇分、ついに日本橋を背に、北と南に別れた兩街道が、ここで合流したのであります。中仙道の終着でもあります。ですが、もちろん京都三條大橋が最終的なゴールであることには變はりありません。それも、あと一回の行程で、と思ふと何だか名殘惜しい氣がいたします。

そのあと、本陣跡を見學し、街道交流館で休憩。その際、參加者一人ひとりに、リーダーから「中山道踏破証」が渡されました。感無量! 實際のゴールは、さらに進んだ矢倉南交差點で、一一時一五分に到着。一一三二〇歩でした。

晝食は、東海道新幹線がよく見渡せる、道の駅アグリの郷栗東でいただきました。が、これで歸路についたわけではありません。バスで約四〇分、安土城跡に向かひ、見學といふか、觀光といふか、大汗をかいて天守跡まで上つてきました。思つてゐたより規模の大きな城であることが實感できました。

運轉手さんの氣轉で、琵琶湖畔を米原驛まで北上。廣々とした湖を眺めながら疲れを癒すことができました。また、鳥人間コンテストの収録現場を發見しました。

 

今日の寫眞・・草津川の底を掘り抜いたトンネルを通つて到着した、東海道と中仙道との追分とその道標(二枚)。街道交流館でいただいた「中山道踏破証」。それと、安土城跡にて。大手道を上る。天主閣跡にて(二枚)。

尚、撮つた寫眞は三日間で八〇三枚でした。暑くて辛くて集中力に缺けてゐたからでせう、いつもより少なかつたです。

 




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