五月八日(木)己卯(旧四月十日) 晴れ、風がとても強い

体力回復強化散歩の五日目、といふか五回目の今日は、深川を目指して歩きました。もう、風邪の後遺症は追ひ払ふことができたと思ひます。心臓のはうも、今のところ調子よく動いてくれてゐます。

それにしても今日は風が強くて難儀いたしました。隅田川の川べりでは、帽子が吹き飛ばされて、追ひかけまはしました。それもさうですかね。堀切橋を渡つてゐるときから注意してゐたんですが、次第に慣れてきて油断をしてしまつたやうです。

ところで、我が堀切菖蒲園駅側から堀切橋を渡つた、東武鉄道の堀切駅は、荒川放水路と隅田川が最も接近してゐるところなんです。それを結んでゐるのが、旧綾瀬川なんですが、このあたりを頂点といたしますと、荒川と隅田川は、末広がりに広がつてそれぞれ東京湾に注いでゐます。その挟まれた地帯がいはゆる江東デルタ地帯と呼ばれるところなんですね。

その東武鉄道の堀切駅までは、前回と同じでしたが、今日は、そこから、鐘ヶ淵駅のはうには向かはないで、旧綾瀬川に沿つて、すぐ墨堤通りに出て、南下することにしました。つまり、隅田川沿ひに川下へ向かつたわけです。鐘ヶ淵中学校を過ぎると、右手に都営白髭東アパートが見えてきましたが、それが、屏風のやうに、いや、切り立つた断崖のやうに遥か彼方まで続いてゐるのです。建物全体が、防火壁なのか、堤防なのか、その建物の途中に、水門まであるのにはビックリしてしまひました(今日の写真参照)。

その中程に、今日の探訪予定の一つ、“榎本武揚像”がありました。晩年、この地を愛し、よく散策されたのださうです。銅像は大正二年(一九一三年)に建立されたやうですが、近くなのにまつたく知りませんでした。

さらに進みますと、いや、ちよつと待つてください。どういふわけでせう、パトカーが目につきますね。最初は堀切橋を渡る前の高架道路の下に、機動隊を乗せたあのブルーグレーの格子の入つたバスがとまり、墨堤通りに入つてからは、信号機のある交差点ごとに一台見かけるほどのものものしさです。何なんでせう?

白鬚橋の交差点を過ぎますと、左手に“白鬚神社”が現れました。「天暦五年(九五一年)、近江国の白鬚大明神を勧請したのが起こり」といひますから、由緒ある神社なんです。そのせいでせうか、境内にはたくさんの石碑が建つてゐます。その脇に、“旧墨堤の道”が通つてゐるところをおもんばかりますと、この神社、昔は川べりに建つてゐた、といふか、川が移動してしまつたんですね。

墨堤通りを急ぎます。目を凝らして歩きました。先日は、道路をはさんで川側を歩いたので見過ごした、“歌川豊広辞世狂歌碑”があるはづなので、注意深くたどりましたけれど、ありません。深追ひはやめて、検討をつけて、左手の路地に入りますと、ライオンズマンションがそそり立つてゐます、その角に、ありました。“榎本武揚旧居跡”です。ここから、先の銅像のあたりまで散歩を楽しんだといふことなんでせう。

言問団子は今回は寄らず、桜橋も渡らずに、ひたすら隅田川べりを川下に向かつて歩きました。水上バスが走つてゐます。言問橋をくぐり、北十間川にぶつかるところで、いつたん墨堤通りにもどり、枕橋を渡つてからまた川べりに回り込むやうにして進むとそこが隅田区役所のやうです。ありました。“勝安芳(海舟)像”です。これは、「二〇〇三年、生誕一八〇年を記念して有志の手で建立」と説明にあります。若いころの姿のやうです。ぼくはこの像についても知りませんでしたね。ここで、一一時一五分、九八〇〇歩でした。

さて、吾妻橋からは、両国めざしてまつしぐらです。角に、吾妻橋観光案内所があつて、そこで詳しい観光マップをいただきました。その右、東南に入つていく路地といふには大きい道路ですが、三ツ目通りと清澄通りの中間にあたる、その名もない道路を、東駒形二丁目、本所二丁目、石原二丁目、亀沢二丁目まで下ると、北斎通りにぶつかりました。向ひに“野見宿禰神社”が見えます。この北斎通りの電燈の柱といふ柱に、街歩き「北斎ギャラリー」と銘打つて、北斎の版画が張られてゐるのですが、ぼくは、いささかやり過ぎではないのかと思ひました。目の高さにあるならまだしも、腰を曲げて、近づかなくては見れないのでは、九四点もの作品を誰が見るんでせうか。いや、よけいなお世話でした。はい。

野見宿禰神社には、歴代横綱の名前が刻まれた大きな石碑がありました。その隣に、業平屋といふそば処があつたので、あなごミニ天丼セットをいただきました。ぼくのあとから入つてくる客がみなぼくと同じあなごミニ天丼セットを注文するもので、よほど美味しく感じてしまひました。一二時一〇分、一二七〇〇歩でした。

さて、時間も気になります。地図を片手に、カメラを片手に、訪ねた順に記します。まづ、“江川太郎左衛門終焉の地”碑。“葛飾北斎生誕の地”の看板。“河竹黙阿弥終焉の地”碑。“三遊亭圓朝旧居跡”はどうしても見つけられませんでした。“山岡鉄舟旧居跡”。“勝海舟旧居跡”。ここは、海舟が、九歳から二十四歳まで過ごしたところです。泥舟も加へて、「幕末の三舟」とよばれた二人は、とても近くに住んでゐたんですね。

そこから、京葉道路を西進、緑三、緑二、緑一の手前で南に折れると、そこに“小林一茶旧居跡”があるはづでしたが、どうしても見あたりません。向ひのお店のお姉さんに聞いたら、なんと昨年撤去されてしまつたやうなんです。でも、近くに、『鬼平犯科帳』に頻繁に登場する、軍鶏鍋屋「五鉄」のモデルとなつた、“鳥料理・かど家”を発見しました。いつか来て食べてみたいですね!

さあ、あとは勝海舟生誕の地を残すのみ。深川は今回は断念することにしました。勝海舟生誕の地は、さらに両国駅に近づいた、両国公園がその場所のやうです。何本もの大きな樹木におほわれた公園の片隅に、“勝海舟生誕之地”碑が建つてゐました。探す気で来なければ、遊んでゐる親子や休んでゐるサラリーマンには気づきもされないやうに静かに建つてゐました。ぼくもここで、ベンチに座つてしばらく休みました。午後一時五五分、一七四四〇歩でした。

京葉道路沿ひに、ブックオフがありました。いつもあまり期待しないんですが、今日は、葉室鱗の『蜩ノ記』と、田辺聖子の『古川柳おちぼひろい』があつたので買つてしまひました。

帰りは、大江戸線で、上野御徒町駅まで行き、そこから京成上野駅まで歩いて帰路につきました。帰宅時間は、午後四時五分、二〇六〇〇歩でした。

 

今日の写真:都営白髭東アパートの建物と建物とのあひだに聳える“水門”。榎本武揚像と、その旧居跡。隅田区役所わきに聳える勝海舟像。北十間川にかかる枕橋から見たスカイツリー。相撲の神様とされてゐる野見宿禰が祀られてゐる野見宿禰神社。その隣、業平屋さんの、あなごミニ天丼セット。葛飾北斎生誕の地。江川太郎左衛門終焉の地。勝海舟旧居跡。勝海舟生誕の地。