三月廿九日(日)甲辰(舊二月十日) 晴のち曇天、夕方小雨
今日も横になつて過ごしました。昨日、古本まつりに、這つてでもと思つて出かけたからでせうか、それとも、躓いて倒れたときに、とつさに防いだ手の甲や指だけでなく、ほかのどこかも打つたのかも知れません。なんだかだるくてやる氣もおこらず、寫眞の整理もできずじまひでした。それでも、くづし字や古文書の本を手放しはしませんでした。
今日の讀書・・ひと月前から、寢るときに少しづつ讀んできた、『落し咄 寛政頃写本』(古典文庫)ですが、うれしいことに、とてもわかりやすいくづし字で、漢字にもふりがながあり、といつてもふりがなもくづし字ですが、ますます自信がついてきました。一九〇話あるうち、四六話まで讀めました。
ところがです、讀むことはできても、これは『落し咄』ですから、「落ち」がつくんですが、それがわからないのです。たまにはわかるのもありますが、その時代には通用してゐたかも知れない常識といふか、風俗などが下敷きとなつてゐますでせうから、何故おかしいのか、面白いのかわからずに、ちよいと白けてしまふことが多々あります。
そこで、わかつた咄をひとつ。
「天神 したひしたひ難儀になり、道具衣類皆しちやへ遣り、もはやせんかたなく、先祖より大せつにせし天神様のかけもの、是より外なしと床へ懸奉りて、泪を流して、もつたいなき事なれとも、しちもつに成らせられ、質屋へ御出下さりませと願へは、あらありかたや、此天神様、御なミた流させられ、御悲しミの体。亭主肝にてつし、夫ほとに拙者か事思し召下し置れて、御嘆き下されますといふは、誠に有かたき事にこさりますといへは、 天神 イヤそふて無い。質屋へ遣られたらハ、またむかしのやうに流されるてあろう。」
以上、お粗末さまでした。
今日の寫眞・・今日は日曜日、山口二郎さんの「本音のコラム」。
それと、東京に來てから購入し、履きつづけてきたメレルの靴と、新しい靴(の裏底)。編み上げ靴を買ふまでは、これで日光街道と中仙道を歩いてきた思ひ出がいつぱいの靴ですが、もう壽命のやうで、處分することにしました。
靴の裏をみると、左右平均して磨り減つてゐることがわかります。妻に言はせると、ぼくの歩き方がいいかららしいんですけれど、それでは、先日轉(こ)けたのは、ぼくのせいではなくて、やはり出張つてゐた縁石のせいなんでせうか?