四月十九日(火)辛未(舊三月十三日 晴

 

朝食後、毎月の定期的な齒科通院でした。それで、歸宅後すぐに準備して家を出ました。今日は十九日、國會議事堂への抗議行動の日であります。準備といつても、今日は持ち物をリュックにして、手ぶらで歩くことにしました。最終的な目的地はもちろん國會議事堂ですが、今日は途中からは乘物で行くことにして、何處まで歩けるか、それこそ目的地を定めないで、いや、ただ、淺草天健(てんたけ)の天丼だけは喰はうと決心して出發しました。今まで二回訪ねたのに二回とも休業で食べられなかつたからです。

 

九時半、歩數計をクリアして家を出ました。堀切橋と汐入大橋を渡り、そこから、今回は隅田川に沿つて下りました。 

水神大橋を越え、白鬚橋までは川縁のテラスの上を氣持ちよく歩くことができましたが、そこからは工事中で、江戸通りといふ交通量の多い道路を南下し、橋場不動尊に立ち寄り、そして、目的の一つである東京都人權プラザを訪ねました。 

先日讀んだ、『彈左衛門とその時代』によつて敎へられたからです。確かに、彈左衛門の寫眞が展示されてゐました。「被差別身分の制度的な解放を図るための布告」である「太政官布告」も、それに、水平社による宣言文も展示されてゐました。〈同和問題〉の他にも、〈アイヌの人々〉、〈HIV感染者等の人権〉、〈外国人の人権〉、それに、〈障害のある人の人権〉というふうに多彩な今日的な問題が指摘されてゐて、一通り見ただけでもたいへん勉強になりました。

 

さて、つづいては、その彈左衛門たちが居住した、かつては龜岡町といつた地域を訪ねました。と言つても通り過ぎただけですが、どこといつてかはりばへしない町竝みがつづきました。ただ、「東京解放会館」といふ看板が目にとまつただけで、すぐに二つ目の目的地の今戸神社に到着しました。 

そこは、「沖田総司終焉の地」であり、招き猫發祥の地といふかその今戸焼の記念碑がありました。(つづく) 

 

今日の寫眞・・國會議事堂への道(その一)。

 





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