正月卅一日(水)癸亥(舊十二月十五日・望 晴のちくもり

 

先週、ぐらついてきた齒を治療していただいた、その齒の根が痛み出したので、朝一で診ていただきました。すると膿んでゐて、それが痛かつたやうで、治療もすぐ終りました。まあ、今までもさうですけれど、これからも對症療法といふのか、その場しのぎですませていくしかないのでありませう。ため息がでます。 

 

今日の讀書・・この一月、何かがプツチンと切れてしまつた感じで、さて、ものを考へるのがちよいと億劫となり、先日出してきた、澤田ふじ子さんの 『嫋々の劍』 を寢轉んで讀みました。澤田さんのものは京都を舞臺にしたものが多く、「足引き寺閻魔帳」シリーズと、「祇園社神灯事件簿」シリーズでは、目からたくさんのウロコが落ちる經驗をさせていただきました。今回は、「幕末における錦の御旗誕生秘話」が面白かつた。 

たしかに、「およそ、今日、私たちが京の町に住む人々の生活の息吹を、江戸の町に住む人々のそれと同樣、身近に感じられるようになったのは、澤田ふじ子の功績であ」る、と、縄田一男さんが解説で言つてゐる通りであります。 

 

一昨日、神田君との話の中に淺野順一先生が出てきましたけれど、同時に佐竹明先生のことが思ひ出されました。 

學生時代に一度だけ先生の研究室を訪ねたことがありました。ドアを開いて入つたその時の印象が忘れられません。正面の窓に向かつて両側にずらりと並んだ書架の整然としたさまとその中の本、すべてフランス装の洋書だつたことを。 

その時が、口頭試問だつたのかどうかはさだかではありませんが、先生の聲と言へば、ある集會での出來事も鮮明に記憶してゐます。ある學生たち(補足・・ぼくや神田君は學士編入組ですが、生粋の靑學育ちの學生)が、企業に就職したとかできなかつたとかおしやべりしてゐた席に向かひ、佐竹先生は、「君たちは何を學んできたのだ!」と、どなるでもない、しかし少しトーンの高いよく通る聲でおつしやつたのです。 

何を學んだか、それはどのやうに生きるかを學んだと同義なのです。學んだことを生かせない生き方は、何も學ばなかつたと同じなのだといふことを敎へられたとぼくは思ひました。學んだやうに生きようと、この時決意したのかもしれません。 

 

神田君から、喫茶店で話に出た、和田先生のご本、『ヨルダンの此岸に立ちて─学園紛争の嵐の中で─』(創文社) の中の、「明治学院大学紛争 事実経過(昭和四三・一〇~四六・一二)」 の頁の複寫がメールに添付されて屆きました。 

それで、祕藏の日記帳を出してきて照らし合はせてみたら、ぼくの記録と合致するところ多々あり。ただ、當時の状況がよく思ひ出せないのと、學校側の先生とぼくら學生側とでは認識が異なるのか、理解できないところも多々ありました。全文を確認するにはいたりませんでしたが。 

いつその事と思ひ、ネットで探してみたら、五〇〇圓とか六〇〇圓で賣つてゐたので、注文してしまひました。 

 

今日の寫眞・・讀み終つた、澤田ふじ子著 『嫋々の劍』 と、これから讀む小松左京さんの 『湖畔の女』 と 『ハイネックの女』。