五月十三日(水)己丑(舊三月二十五日 晴

 

「北國街道ハイライト」、否、岸本先生の資料にあるやうに、これからは、「北國街道を歩こう」と呼びたいと思ひますが、その二日目、北國西街道を歩きました。

昨日書き忘れましたが、參加者は二十人で、その半數以上は中仙道で顔見知りの方たちでした。しかも、常に相部屋の川野さんと大塚さんもご一緒です。心強いことこの上ありませんでした。

それと、宿泊したホテル、否、「信州健康ランド」は、「中仙道を歩こう」でも利用したのでしたけれども、最も評判のよくなかつた施設だつたので、それも懸念材料の一つだつたのですが、食事についてはだいぶ改善されたやうです。ただ、どうみても二人部屋としかいへない和室に、三人押し込められたのには、さすがだなあと變に感心してしまひました。

昨日は、追分宿から矢代宿まで、途中、小諸宿と海野宿と上田宿は宿場内を見て回り、それと岩鼻の嶮を歩いて抜けました。宿場も、觀光では歩かないやうな、痒いところに手がとどくやうなところを訪ねたのが面白かつたですね。

また、宿場と宿場の間はバスといつても、歩いて街道をたどる所も多く、昨日は出發からホテル到着まで、一三五九〇歩でした。

 

それで、今日は、中仙道で通つた洗馬宿を起點として、善光寺宿まで北國西街道を歩きました。芭蕉が、「更科紀行」で歩いた街道でもあります。まづは郷原宿と松本宿、そしてこれは寄り道ではありましたが、「早春賦」の歌碑を訪ねて歩いた安曇野の風景があまりにも美しくて形容する言葉が見つからないほどでした。

岸本先生は、遙かに雪を頂いて聳える山々の名をあげて説明くださり、山には疎いぼくでも興味がわくやうな話しぶりに感心いたしました。有明山についての説明には特に熱が入り、それからはぼくたちは、「悲劇の有明山」と呼ぶやうになりました。また、雪形を眺めやり、あれはぢぢいが種をまいてゐる姿だといはれても、みなさんだれも肯んずる方はをられませんでしたけれども、それでも先生はめげませんでしたね! 

青柳宿もよかつたです。川中島古戰場もはじめて訪ねたので、興味津々でした。それと極めつけは善光寺宿でした。ちやうど、ここもご開帳といふことで賑はつてゐましたが、一つ一つの古跡や場所の名前やいはれの説明も堂にいつたものでした。よくわかつただけでなく、それによつて、さらに興味が沸き立たせられるのですね。かういふことは、本を讀んでの經驗以外には今までになかつたことなので、ぼくは、これからも參加し、先生に付いて、ますますお勉強に精を出したいと思つたのでありました。

新宿には、豫定時間より二十分早く帰着することが出來、ぼくは、龜有りに直行いたしました。

さう、歩數は、一三一六〇歩と、前日とさう變はりはありませんでした。しかし、この旅になれてしまふと、「中仙道を歩く」が苦痛になつてしまふかなと、ちよいと心配になりました。が、次回は、十月ですから、中仙道完歩(?)後になるので、まあ、いいでせう。

 

今日の寫眞・・安曇野。青柳宿の大切通し。善光寺。そして、岸本先生のご本、『北国街道を歩く』(信濃毎日新聞社)にいただいた先生のサインと、ご一緒の記念寫眞。

 



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