月廿九日(火)庚戌(舊二月廿一日 晴

 

渡良瀨遊水地ヨシ焼き」では、味氣ないと思つてゐたら、川野さんが「渡良瀨紀行」と言つてくれたので、今後さうさせていただきます。今日はその執筆をしながら過ごしました。 

それと、關心は多岐にわたつてしまふのですが、小松英雄先生のご本は繼讀することにして、そのご指導よろしく、『古今和歌集』は遲々として讀み進みながら、さらに、平安時代の古記録を讀みつづけるにあたつて、『大和物語』(慶長元和中刊十一行〈イ〉種本といふ影印本)を讀みはじめることにしました。物語や日記文學の先驅とされる『伊勢物語』に對して、説話文學への移行を示すといはれる『大和物語』です。平安時代の初期から中期にかけての樣子が學べさうです。歌人必讀書といはれてゐますので、詩歌がにがてのぼくにはさらにいい勉強になるでせう。 

もちろん、江戸・東京散策の準備もしなければなりませんし、けつこう忙しい日々になりさうです。 

 

*三月廿六日「渡良瀨紀行」(その四) 

まあ、後ろ髪が引かれないと言へばになりますが、すでに、一一時を回りましたし、次の豫定の場所へ急がなくてはなりません。川野さんが下見をしてくださつた、「室の八嶋」です。 

「室の八嶋」と言はれても、ピンとこない方がをられるかも知れません。その名が知られるのは、芭蕉さんの 『奥の細道』 くらゐのものだからです。でも、古來、歌枕の地として有名だつたやうで、わざわざ遠回りして訪ねたといふのですから、芭蕉さんとしても思ひ入れがあつたのでせう。 

ぼくが、日光街道を歩いてゐた時にふと抱いた疑問は、どうして芭蕉は日光街道を通らずに、壬生道・例幣使街道を行つたのかなといふことでしたが、それはこの室の八嶋を訪ねたいがためであつたやうです。さう言へば、簡潔すぎて物足りない記述が目立つ 『奥の細道』 のなかで、室の八嶋については比較的多くの筆をふるつてゐます。といふか、よく分からないことを、同行した曾良さんが説明したこととして書いてゐるところなんか、やはり、歌枕の旅であることを強く印象づけるためだつたのでせうか。 

ともかく訪ねてみなくてはと思ひ、藤岡驛に急ぎました。けれど、東武鐵道は、路線が網の目のやうに走つてゐて慣れない者にとつてはよくわかりません。室の八嶋のある大神(おほみわ)神社には、最寄りの野州大塚驛まで行かなければならないのですが、まづ、東武日光線の本線で新栃木驛まで行つて、そこで東武宇都宮線に乘りかへます。 

それにしても、東京の下町からやつてきたぼくには、廣々とした、地平線が見えるやうな景色に、目がさめるやうな、心まで解放された思ひがいたします。(つづく)

 

以下寫眞 一・後ろ髪が引かれる遊水池、二・土手の土筆、三・新栃木驛から宇都宮線へ分岐點、四・廣々とした野の風景

 



 

今日の讀書・・馬場蝴蝶著『明治の東京』(現代教養文庫)讀了。とはいへ、後半の、「昔の寄席」などは讀み流しました。 

ところが、讀んでゐて氣がついたことがありました。それは、著者が、十歳のときに生國の土佐から東京へ出て來たと言つてゐることや、「亡兄が死んだのは、明治二十一年であったのだが、米国で客死したので」、と語つてゐるので調べたら、さうでした、蝴蝶はあの馬場辰猪の弟だつたのです。自由民權運動の思想家の辰猪です。萩原延壽著『馬場辰猪』(中公文庫)が讀みかけであつたことを思ひ出しました。

 

コメント: 0