十一月廿四日(木)庚戌(舊十月廿五日 曇天のち小雪のちやむ

 

今日の讀書・・朝食を食べ終はつたころから雪が降り出しました。だうりで冷えるはづで、今日もふとんにもぐりこんで過ごさうかと思ひましたが、それではお勉強が進まないと反省いたしまして、行火がはりに子猫を抱い讀書にはげみました。 

『日本紀略 後編五』 を讀み終へ、『日本紀略 後編六』 の圓融天皇の時代に入りました。冷泉天皇は在位二年でしたが、圓融天皇は十五年でありますから、けつこうな長期政だつたわけであります。もつとも、「新帝年十一」ですから、攝政關白藤原氏にとつたら御しやすい天皇だつたのです。また、それを目論んで安和の變などを引き起こし、左大臣源高明に外戚の地位を奪はれないやうに、これは一族こぞつての陰謀と言つても過言ではないでせう。

 

さて、安和二年(九六九年)八月に天皇が交代しましたら、藤原氏も政權交代といふか、世代交代といふべきなんでせう、同年十月十五日には、「左大臣正二位藤原師尹(もろまさ)」が五十歳で「薨去(こうきょ)」し、次の年、改元されて天禄元年(九七〇年)となつたその五月十八日には、今度は、「攝政太政大臣從一位藤原實賴」が、七十一歳の高齢でやはり「薨去(こうきょ)」いたしました。「薨」の字は、皇族や三位以上の人の死の場合の呼び方でありましたね。 

さらに、七月十四日には、兄を追ふやうにして、「大納言正三位皇太子傅藤原朝臣師氏(もろうじ)」がやはり薨じてゐます。年は五十八歳でした。 

以上の三人は、藤原忠平の息子たちですが、次世代の政權を擔つたのは、しかし、十年前に薨じた實賴の弟、師輔の子たちでありました。伊尹(これまさ)、兼通、兼家の三人が主立つてゐますね。兼通と兼家が犬猿の仲であつたことはあまりにも有名ですが、それは後日のことになるでせう。兼家は道長の父親であります。 

 

まづ、「左大臣藤原師尹」が没すると、たちまち、その近親者が位を襲ひまして、右大臣藤原在衡が左大臣となり、その右大臣在衡に代はつて、大納言伊尹が右大臣に昇進いたしました。 

天禄元年(九七〇年)正月廿七日己巳 詔、以右大臣藤原朝巨在衡、爲左大臣。以大納言藤原伊尹、爲右大臣。 

 

次いで、「攝政太政大臣藤原實賴」が亡くなると、わづか二日後には、右大臣となつた伊尹が、攝政を兼任するのでありました。有無を言はさぬ早業ですね。 

五月廿日庚申 今日、詔、令右大臣藤原伊尹朝臣、攝行政事(政事を攝行せしむ)。 

 

ちなみに、攝政となつた右大臣伊尹は、次の年の十一月には、太政大臣となつて、一階級飛越すといふ荒業をしとげてゐるんです。でも、ちやうど一年後に四十九歳の若さで薨じてゐます。欲はかくものではないことを教へられます。 

また、この伊尹には、『一條攝政御集』 といふ一應有名な歌集がありまして、これはもう入手濟みであります。もちろん讀書豫定にはいつてをります。 

 

ところで、なぜ、上位の左大臣在衡が太政大臣や攝政になれなかつたのか、實は、この在衡(ありひら)さん、藤原氏でも傍系でありまして、ちよつと變はつたところのある人物なのでした。 

ぼくは、手元に、講談社学術文庫版の『大日本人名辭書』(全五册)を置いて、氣になつた人物については引いてみることにしてゐるのですが、「藤原在衡」の内容が逸話に滿ちてゐて面白い。よく見ると、最後に、『大日本史』からの引用だと書いてあるんです。それで、すぐに、出してきまして開いたところ・・・。その中身は、諸本からの引用づくしでして、くはしくは、その原本に當たらなければなりません。『大日本史』は、黄門樣が、介さん格さんを驅使して探し出した文獻をまとめて記したものでして、その引用文獻名をいちいち載せてゐるところが偉いと思ひます。 

幸ひ、引用されてゐる、『公卿補任』も、『朝野群載』も、『本朝文粹』も、『古事談・續古事談』も、『扶桑略記』もありましたから、たしかにこのやうにして、人物像を肉付けしていくのかといふ方法といふか、まとめ方を教へられた思ひがしました。 

まあ、ぼくの讀書は、一種の探檢みたいなものですから、本によつて本を敎へられ、さらに新しい發見へと導かれるのを期待しながらさらに進んでいきたいと思ひます。 

 

あれ、さうさう、藤原在衡さんのことですが、ぼくは二つのことで感心しました。一つは、生前に、「尚齒會」といふ、敬老會を開いてゐることです。 

安和二年(九六九年)三月十三日庚寅 大納言在衡卿、於粟田山庄、有尚齒會。七叟各脱朝衣、著直衣指貫。希代之勝事也」。 

もう一つは、左大臣源高明が失脚したとき、家人が、次期の大臣はご主人のものですね、とかなんとか、まあ喜んでもれへると思つておべんちやらを言つたのでせう。すると、在衡は「大にいかりて、をひいでてけり(追ひ出してしまつた)」、と『續古事談』(卷第二─六、四五)にあります。 

 

最後にもう一つ。いよいよ、くせもの兼家が登場し、きつと、安和の變でも暗躍したのではないかと推察するのですが、この兼家の妻のひとりは、例の、『蜻蛉日記』の作者でありまして、二人のあひだには道綱といふ息子まであります。その、兼家の息子、道綱のエピソードが今日讀んだところに出てきましたので、書き出しておきます。 

「天禄元年(九七〇年)三月十五日丙辰 今日、殿上賭弓。天皇出御。親王以下參入。奏樂。兼家卿息童舞態已得骨法。仍主上給紅染單衣」。 

「紅染單衣」を天皇からぢかにいただいたのですから、よほど舞が上手だつたやうです。このことは、『蜻蛉日記』の冒頭近くにも記されてをり、お母様のお喜びが傳はつてきます。でも、この道綱君、いささかマザコン氣味でありますね! 

 

今日の寫眞・・朝の雪景色。それと、『大日本史』列傳の藤原在衡さんの部分と『大日本人名辭書』(講談社学術文庫)の第三卷。