十一月廿三日(日)戊戌(舊十月二日) 快晴

 

大事をとつて、午前中は體を温めて横になつてゐました。すると、かへつて腰が痛くなつてきたので、晝からは起きて、明後日に迫つた、「中仙道を歩く」の上松宿から三留野宿までの豫習をしました。何册もある參考書を讀みながら、氣になつたことを、手に持つて歩く資料に一つ一つ記入していくのです。

 

それで、堀田善衞さんの『定家明月記私抄 続編』を、きりのよいところで中斷することにしました。氣づいたことを記しておくと、藤原定家さんの『明月記』には、中斷がとても多いといふことです。しかも、源平爭亂期と承久の亂を含むあたりは全缺です。それでも、堀田さんは、他の史料を驅使して、その間の出來事をつなぎ合はせてくれてゐて、苦勞がしのばれるところです。

後鳥羽上皇の引き起こした承久の亂はまるで無謀な戰ひでしたが、何故ばかな爭ひを引き起こしたかについて、堀田さんは述べてゐます。「承久の乱の原因を、いずれに求めるべきか。・・けれども、あらゆる戦争、戦乱の発起というものには、いずれにもすべて、説明不可能な部分がともなっているように思われる。われわれの近頃の経験としても、緒戦に日本軍が真珠湾を攻撃して、その成果をほとんどの国民が喜び迎えていたとき、歴史に深い洞察力をもっていた英国の首相ウィンストン・チャーチルが、その回想録に、「全国民が発狂するということは、ありうることである」と書いたことが思い出される。もっとも恐るべきものは、やはり支配者、あるいは支配層の妄想であり、その妄想の国民への強制である」。然り!

 

定家さんについていへば、六十の坂を越えた時期に、「ほとんど一家総がかりで源氏物語の書写をはじめている。この書写、写本についてほんの一言だけ記しておくとすれば、我々後世の読者は、定家の書写に実に多くのものを負っているのである」といはれてゐんです。たしかに、ぼくの手元には、定家書写の『古今和歌集』、『更級日記』、『近代秀歌』の全文と、『源氏物語』の部分があります。定家さんのおかげでぼくたちも讀むことができるんですね。

 

今日の寫眞・・藤原定家書寫本四種。『古今和歌集』、『更級日記』、『近代秀歌』、それに『源氏物語』、です。

『更級日記』は、その〈解題〉にかうあります。「本日記は、作者の手を離れて以来(一〇六〇年頃)、藤原定家の『明月記』寛喜二年(一二三〇年)六月十七日に至るまで、文献に一切その名を見ず、流布の形跡も全くない。このことは、現存最古の写本が定家筆であること、・・これが出世間的契機に定家の役割を想定させるものでもある」、とあります。あつぱれ定家さんですね。

その『明月記』の原文には・・、「十七日、天晴、早朝涼氣、薄霧如秋、但馬前司來臨、午時許、淸談移時刻、借草子等、蜻蛉日記、更級日記、・・」となつてゐて、『蜻蛉日記』までも借りてゐることがわかります。

それと、『近代秀歌』ですが、これは、源實朝から送られてきた歌に「合點」をほどこし、送り返すときに添へられた歌論書です。定家さんを中心に、その時代が透けて見えるやうです。ちよつと大げさかも知れませんが。

 



コメント: 0