七月五日(火)戊子(舊六月二日 曇天、一時小雨で肌寒い

 

今朝、起きて、モモタとココの部屋の戸を開けるとき、昨夜のことがあつたものですから、またモモタに牙をむかれるのではないかと心配しました。けれど、開けたとたんに見えたのは、モモタが正座をしてぼくを見上げる姿でした。食事を待つてゐたのでせうが、なんともいぢらしくて、思はず撫でさすつてあげました。それからは、いつものモモタでした。 

それにくらべて、妻はまだ愛しのオトちやんがいぢめられたのを根に持つてゐるやうですが、猫のはうが、根に持たない、といふか、すぐ忘れてくれることがよく分かりました。 

 

今日の讀書・・本の整理のために書庫に入つて、今朝目にとまつたのは、中村眞一郎著『王朝文学論』(新潮文庫)と同著『王朝物語』(同)でした。 

王朝文學讀破を志した四、五年前に求めた二册ですが、それとは別に、解説本ぬきに、直接讀んでやろうと意氣込んでしまつたものですから、結局はお藏入り。それで、『竹取物語』も、『伊勢物語』も、『平中物語』も、『土左日記』も、『大和物語』も、『篁物語』も、すべて直に影印本の原文を讀んできました。まあ、それなりに面白かつたことは確かですけれど、『王朝物語』を讀みはじめて、ぼくは深く後悔いたしました。 

「文学作品は原文で接するのが、最も正統的な読み方であることは、いうまでもない。しかし、・・・それらの物語を、ひとつの小説として読もうというなら、小説には、それを読む速度というものがある。・・・小説は、どれほど長くても、なるべく一息に読むべき芸術である」。 

と、まあ、かう言はれてしまつては身も蓋もないのですが、くづし字のお勉強をかねてゐるといふことでご勘辨願ひたいと思ひます。

 

それと、一書一書の解説がまた素晴らしく洞察に富んでゐて、先入觀と言はれやうと、これを讀んでから取り組んでゐたら、もつと収穫があつたかも知れません。 

例へば、『平中物語』なんて、女たらしの男の愚かな話だと思ひつつ讀んでしまつたのですが、中村眞一郎さんによると、「この物語は反業平である。『伊勢物語』が、すべて恋の勝者の説話から作られているとすれば、この物語の主人公、平中は敗者である。・・・つまり、この物語は、王朝物語の通常のヒーローである恋の勝利者に対する、その犠牲者の立場から、一貫して描かれている」。それでことさら愚かしい男に思へたのでした。 

しかし、「わが王朝貴族たちの協力して作りあげた、この美しい幻影は、平安朝のつづくあいだ、生活と芸術とを支配しつづけた。ただ唯一の例外が『平中物語』で、この物語の視点の写実主義は、日常生活を覆う「物の哀れ」の幻影を吹き払って、読者に生活の、身も蓋もない実像を突きつけることにあった」。

 

ここで言ふ、「美しい幻影」とは、「いきなり女を動物的に襲って、身体を奪う、生理的な肉欲を『物の哀れ』という美学で包むことによって、愛欲を文明の一現象に昇華させた」、そのことを作者は、「身も蓋もない実像を突きつけることに」よつて批判してゐるといふのです。 

たしかに讀んでみて、平中は愚かです。が、それは、「自分を笑うことができた」作者の自信といふか、平安貴族たちへの痛烈な批判の現れであり、一種、パロディ精神があふれた描寫だつたのではないかと思ひます。できれば、このやうな視點をふくみながらもう一度讀み直してみたいものだと思ひました。 

つづいて、『多武峰少將物語』とか、『宇津保物語』とか、『落窪物語』の影印本を讀んでいくので、こんどは事前に眞ちやんを讀んでおこうと思ひました。 

 

今日の《平和の俳句》・・「青天に鯉(こい)百匹の平和かな」(八十四歳男) 

〈いとうせいこう〉 鯉のぼりを空に放ち、風に吹かせる爽快な平和。青天に軍用機なく。 

〈金子兜太〉 「鯉百匹」が、千匹、万匹より力強い。平和の基準単位のような力強さ。 

 

今日の寫眞・・今朝の新聞切り抜きと、中村眞一郎著『王朝文学論』(新潮文庫)と『王朝物語』(同)。 

それと、今日のモモタとココ。しかし、オトは、ぼくのベッドの下に潜り込んだまま、一度も姿を見せませんでした。ただ、食事はしてゐますし、トイレのためには出て來てゐるやうです。