四月八日(日)庚午(舊二月廿三日・下弦) 晴のち曇り

 

北方謙三著、『破軍の星』 を讀みつづけました。が、なかなかはかどりません。事件や人物が出てきた場合には、『日本歴史大事典』 で調べ調べ讀むものですから、進度は遲々たるものです。もちろん、内容の理解のためですが、のちのちの勉強のためには辛抱しなければなりません。 

例へば、萬里小路藤房なんて、聞いたこともありませんでしたが、本書によると・・・

 

「長雨の続くある日、濡れそぼった雲水が、(多賀城の)政庁に(陸奥守北畠)顕家を訪ねてきた。 

忠村が見かけて声をかけなかったら、わずかな喜捨で追い払われていただろう。 

帝(後醍醐天皇)に上奏文を突きつけ、出奔した万里小路藤房だった(註一)」

 

このやうに、歴史のすき間を埋めるやうな著者の筆の進め方には感心してしまひます。 

 

註一・・万里小路藤房(までのこうじふじふさ) 永仁3年(1295)生まれ。鎌倉末建武期の公卿。父は万里小路宣房。後醍醐天皇に仕え、倒幕の企てにも関与した。《太平記》巻三には、天皇が夢想によって楠木正成を召し出したときに勅使をつとめたとある。笠置落城のときにも天皇に付き従っていて捕らえられ、常陸へ流された。建武政権では検非違使別当、恩賞方筆頭となったが、新政権の乱脈ぶりに失望して京都近郊の岩倉で出家し、その後の消息は不明。 

 

また、本の整理も少し進めました。すると、岩波文庫の、セネカの 『幸福なる生活について』 が目にとまりました。すでに繰り返し讀んでゐるのですが、「人生の短かさについて」も入つたぼく好みの舊字舊假名本であり、新しい邦譯とは一味も二味も違ひます。比べてみるとわかりますが、次の文章なんて今のぼくには心に染みてきます。

 

「身體がだとしても、片眼がが失はれたとしても、賢者は健全であらう、がしかし身體の頑健さが得られればいいとは思ふ。但し、おのれ自身のうちに肉體よりは更に頑健なるあるものを持つてゐるとの自覺があつての上である」

 

この、「肉體よりは更に頑健なるあるもの」とは何でせうか。ぼくは、身體が弱か頑健かであるなんてことよりももつと重要な、人間として生きるうへでたいせつなものがあることを忘れてはならないと問ふてゐるのだと思ふのであります。

 

心がふるえてきます。時には西洋の古典を紐解かなければならないと思ひました。そこでは、感情に訴へるといふより、讀む者の精神や意志に訴へて、心持ちを立て直してくれるのですね。今のぼくには最適の藥と言へるでせう(註二)。 

 

註二・・セネカ (前4頃~後65) 古代ローマ、ストア派の思想家。弁護士・元老院議員・国家財務官を歴任、八年間のコルシカ配流の後、ネロの師となるが、謀反の疑いを受け自殺。著は「道徳書簡」や「対話篇」のほか、ギリシャ悲劇の翻案である九編の悲劇が知られる。

 

さう、かうして携帶メールで日記を書いてゐると、中仙道を歩いてゐた時のことが思ひ出されます。旅先で宿泊した晩など、寢床や廊下、ロビーなどに出て一日の樣子を書き綴りました。でなければ、『歴史紀行 中仙道を歩く』(全三十七册) は書き通せなかつたでせう。まあ、漢字と假名を變換するといふ手間はかかりましたけれど。