八月廿二日(火)辛巳(舊七月朔日・朔 晴たり曇つたり

 

今日の讀書・・永井路子さんの 『望みしは何ぞ 王朝─優雅なる野望』(中公文庫) を繼讀。冒險小説にくらべたら速度はぐつとおちて、考へながら讀み進みました。 

 

《東京散歩 じゆんの一歩一》 第十回のつづき 

北區の田端を離れると、隣は荒川區西日暮里でした。ところが、すぐに台東區谷中に入りました、が、それはかすつただけで、不忍通りを越えると、そこは文京區千駄木でした。 

ガイドブックに從つて狸坂(たぬきざか)といふ坂を上りました。不忍通りのもつと北よりには、動坂とむじな坂、ずつと南よりには大給坂、團子坂。みな丘陵(本郷臺地)に上る坂道です。不忍通りはもともと谷川だつたやうですから、東の上野臺地にある谷中や日暮里方面も上り坂になつてをりますね。

 

さて、この狸坂を上りきると、學校に突きあたりました。文林中學校といふ學校ださうですが、そのそばに、髙村光太郎舊居跡と髙村光雲・豐周遺宅がありました。でも、光太郎の舊居跡はどうしても見つかりませんでした。お父さんの光雲のはうは、いつごろ建てられた家なのか、現在もどなたかが住まはれてゐるやうでした。あの、西鄕さんの銅像を作られた彫刻家ですからね、よく覺えておきませう。 

その門前の、一車線もない路地を地圖にそつて南下いたしましたら、團子坂の通りにぶつかりました。そこを左折し、少しゆくと、前にも來たことのある、森鴎外記念館に出くはしました。しかしここも休館日。 

記念館は、森鴎外の舊居「觀潮樓」の跡地に建つてゐます。敷地内を通り抜けることはできましたので、入つてゆくと、鴎外の暮らしてゐた當時からあるイチョウの木と、鴎外も腰掛けた庭石「三人冗語の石」が殘つてゐました。が、ぼくの目にとまつたのは、壁面に掛けられた、永井荷風書の詩碑 「沙羅の木」 でした。いや、文字が變體假名なんでね、感心してしまひました。

 

時間は一一時半。お晝までにはゴールしたいので、先を急ぎました。南下する藪下通りの左側は崖になつてをりまして、眺めもよく、その途中に、「千駄木のだんだん」と地圖にありましたので、探し探したどりましたら、突然右手に切通しの急な石段に遭遇いたしました、これが「だんだん」でした。ところが、上がりきると、こんどはすぐに左手に急な石段が、しかもより狹い下りです。氣をつけながらおりました。すると、これまた新發見なのですが、「千駄木ふれあいの杜」にぶつかつたのです。入口から恐る恐る入りました。實に鬱蒼としてゐて、ここが都會の眞つただ中であることを忘れさせるほどでした(註)。「ふれあい」といへば、ヘビやムカデにふれあひさうなので、早々に引きあげました。 

 

*註・・武蔵野台地の東端に位置する、本郷台地と根津谷の間の斜面に残る崖線緑地です。江戸城を築いた室町中期の武将・太田道灌ゆかりの屋敷の森の為、通称「屋敷森」と呼ばれています。文京区が平成1310月に開設し、現在山手線の内側で開設されている唯一の市民緑地となっています。 園内にはスダジイやムクノキの巨木、シラカシ、ヤマモミジなどがの植物、ムクドリやヒヨドリなどの鳥類、その他昆虫類など多様な生き物が生息しています。 

 

今日の寫眞・・狸坂を上から振り返る。髙村光雲・豐周遺宅。森鴎外記念館。永井荷風書の詩碑。「千駄木のだんだん」と「千駄木ふれあいの杜」。