十月九日(月)己巳(舊八月廿日 晴

 

今日の讀書・・『大日本史料』 を、『日本紀略』 のお供に讀みはじめて氣づいたことが多々あります。その一つは、そこで引用されてゐる古記録のいくつかが、すでに手元にあるといふことでした。これはとんだミスといふか損失でした。 

たとへば、『御堂關白記』 以上に頻繁に引用されてゐるのが、道長の側近、藤原行成(註一)の日記 『權記』 です(註二)。これは、多くの古記録が、「大日本古記録」(註三)のなかにあるのですが、例外的に、「増補史料大成」(臨川書店)といふシリーズのなかにあります。でも、返り點もない(和風)漢文ですから、讀むとなるとだいぶ手こずります。それで、最近はこれらの現代語譯が出はじめまして、『御堂關白記』 もさうですが、五年ほど前に 『權記』 も出たのですぐ手に入れておいたのであります。それを失念してゐたなんて、なんとも迂闊でもつたいない話でした。 

兩者とも、講談社學術文庫です。最近また、道長のライバルの藤原實資の膨大な日記 『小右記』 が、現代語譯されつつあります。うれしいですけれど、うまく活用できればこその史料ですからね、埋もれさせてゐてはなんにもなりません。そこで、反省をこめて、學術文庫版全三册の 『權記』 のうち、すでに時代が過ぎてしまつた分は飛ばして、第二册目の五〇頁、長保三年(一〇〇一年)初頭から目を通していきたいと思ひます。ちなみに、『御堂關白記』 は、寛弘元年(一〇〇四年)まで中斷なのか、とにかく空白です。 

 

それで今日も、『日本紀略』 をもとに、『大日本史料』 と 『權記』 その他の後援を期待しながら、長保三年(一〇〇一年)の出來事をみていきました。 

すると、『日本紀略』 はまあまあ手慣れたものですが、『權記』 の記述の詳細さには、いやはや驚きつぱなしです。まづは、長保三年正月と二月を 『日本紀略』 で讀み、次いで 『大日本史料』。そして 『權記』 といふふうに讀みました。『大日本史料』 は、『日本紀略』 を補足するやうな史料を引用してゐるだけですが、『權記』 は日記の原文ですから、讀んでゐると、まるで書かれた時代のなかに引き込まれていくやうなリアリティーがあります。例へば、『日本紀略』 では次のやうに記されてゐるところ・・。

 

「二月四日 今日、左大臣道長の猶子、右近權中將・源成信と右大臣顯光の息男、右近少將・藤原重家が相伴つて三井寺に向ひ、出家する。仍て兩大臣驚いて彼の寺に向ふ」

 

左大臣と右大臣の息子が、源成信は道長の養子でしたが、そろひもそろつて一緒に出家してしまふなんて、こんなこと、教科書でも參考書でも讀んだ記憶がありません。が、事實は小説よりも奇なりでありまして、これが歴史の面白いところでせう。 

『權記』 に目を轉ずると、この事件についてけつこう詳しいです。二人の人物のこと、なぜ發心したか、どうしてまた二人一緒に出家したかなどが書かれてゐます。そもそも、彼はこのとき藏人頭で、いはば天皇はじめ全公卿との間に立つた調整役だつたんですね。毎日、内裏はもちろん、左府や右府や重要人物の許に參つてゐます。

 

「右府(右大臣顯光)の許に参って、少将(重家)の出家について見舞い奉った。右府は、心神不覚であるということを報せてきて、拝謁できなかった」 と記してゐます。重家はかの元子の兄でありまして、父顕光(註四)にしたら、自分の位を繼ぐものとして期待してゐたでせうに、よほどがつくりきたのでせう。「心神不覚」ですよ! 

と、まあ、行成さんはじつにこまめに書いてゐるので、すべてについていくことは不可能です。今まで通り、『日本紀略』 をもとに、特に面白いところだけでも拾ひ上げていきたいと思ひます。でないと、なかなか進みませんからね。 

 

顯光と重家、それに元子がでてきたところで、ふと思ひ出して、積み上げられた本の中から、阿部光子著 『悪霊の左大臣』 を取り出し、讀みはじめたら、これまた今讀みつつある 『日本紀略』 の時代の側面に光をあてるやうな内容です。小説にしては、でも論文のやうな書き方です。二〇一一年十一月に購入してゐます。古本にしては高價だつたのですが、必ず讀むときがくるなと思つてゐました。それは、先見の明があつたのか、やつと出番を迎へる準備がととのつたのか、どつちでせう。 

 

註一・・藤原行成(ゆきなり・こうぜい) 平安中期の朝臣・書家。太政大臣伊尹の孫、右近衛少将義孝の長男、母は中納言源保光の娘。従五位下・蔵人頭・権中納言・太宰権帥に進み、権大納言に至る。書家としても優れ、権跡と呼ばれて尊ばれた。外祖父源保光の旧宅を寺にして世尊寺と称したことにより、行成に始まる書流を世尊寺流という。小野道風・藤原佐理と共に三蹟の一人。日記 『権記』 は宮廷を知る重要史料である。『東宮年中行事』の著書がある。万寿4(1028)歿、56才。 

当時の実力者藤原道長からもその書道を重んじられ、行成が 『往生要集』 を道長から借用した際に、「原本は差し上げるので、あなたが写本したものを戴けないか」と言われたという。 

 

註二・・『權記』(ごんき)は、平安時代中期に活躍した藤原行成の記した日記である。名の由来は、極官(ごくかん)の権大納言による。行成卿記、権大納言記とも。執筆時期は藤原道長の全盛期で、特に蔵人頭在任中(一条天皇期)の活動が詳細に記されており、当時の政務運営の様相や権力中枢・宮廷の深奥を把握するための第一級の史料。 

正暦2年(991年)から寛弘8年(1011年)までのものが伝存し、これに万寿3年(1026年)までの逸文が残っている。自筆本は伝わらない。最も古い写本は、鎌倉時代以前に筆写された伏見宮本(宮内庁書陵部蔵)である。同時期の日記に『小右記』(藤原実資)、『御堂関白記』(藤原道長)がある。 

 

註三・・大日本古記録(だいにっぽんこきろく)は、1952年から現在まで東京大学史料編纂所で刊行が続けられている日本史史料集。2008年時点で既刊は121冊。 

東京大学史料編纂所が、「大日本史料」、「大日本古文書」と同じく編纂し刊行している史料集で、1952年から刊行され始めた。刊行目的は、各時代の貴重な「古記録」(主に日記類)を日本史研究に提供すること。校訂を行い解題も付けられている。 

底本は原本を利用する。無い場合は写本を用いるが、異本があればそのなかで最良のものを判断して底本としている。 

 

註四・・藤原顕光(ふじわらのあきみつ) 平安時代中期の公卿。父の藤原兼通が関白になると、昇進して公卿に列するが、兼通の死後はその弟の兼家(顕光の叔父)と道長(顕光の従弟)父子に実権を奪われる。無能者として知られ、朝廷の儀式で失態を繰り返して世間の嘲笑を買った。晩年、左大臣に上るが失意のうちに死去し、道長の家系に祟りをなしたと恐れられ、悪霊左府と呼ばれた。 

 

今日の寫眞・・藤原行成の日記 『權記 中』 (講談社學術文庫)と阿部光子著 『悪霊の左大臣』 (新潮社)。それと、今日のココ。小さな蜘蛛を見つけてまるでハンターでした! おいしいのかどうか、舌なめずりしてゐます。