六月廿一日(木)甲申(舊五月八日・夏至) 終日曇天

 

今朝、起きぬけに讀みはじめた 『枕草子のたくらみ』 を一氣に讀んでしまひました。 

昨夜は、「第一六章 幸福の時」を讀んだところで寢てしまつたのですが、そのときも、心が震えるのを覺えてゐて、できればそのまま讀み通してしまひたかつたのです。 

はたして、ぼおつとした頭でしたが、「第一七章 心の傷」を讀み、「第一八章 最後の姿」を讀んだころには、もう心は平安の昔につれていかれたやう。定子さんの悲しいけれどもほほえみを絶やさないそのお顔を顔してゐるやうな心地でした。 

「第一九章 鎮魂の枕草子」と「終章 よみがえる定子」を讀むころには、さうか、さうだつたんだなと、淸少納言の「たくらみ」に同感し、また同情し、胸がふるえました。 

定子さんの死後、一條天皇は、『枕草子』 に、「定子だけではない定子と幸福の時を過ごす自分の姿をも見たのである」、とあります。自分が愛するがゆゑに惱み苦しませてしまつた定子さんを見てきた天皇は、この 『枕草子』 によつてどれだけ救はれ慰められたかを、ぼくは感動なくしては讀めませんでした。まさしく、定子さんの面影をいきいきとよみがへらせる「鎮魂の書」だつたのです。

 

細かくは説明しませんし、できませんが、これは讀むに値するご本です。そして、讀んだら、あらためて最初から 『枕草子』 を讀みたくなる本です。 

それで、ぼくは、角川文庫舊版の現代語譯で、こんどは一氣に、與へられた感動に導かれて讀み出しました。最初から、定子さんが苦境に陷つた場面(第六段)も、これが晩年のできごとであることを意識して讀めますから、なにがなんだかわからないことはありません。さう、章段は年月順になつてゐませんから、それを自分のなかの年表に、ジグソーパズルの斷片を埋めていくやうに讀むことが肝心であることを知りました。 

 

さて、今日は、二か月ぶりに 《東京散歩》 に出かけてまゐりました。 

〈コース番號25〉、コース名と内容─「寺町散歩 雑司ヶ谷・護国寺 池袋駅~新大塚駅 護国寺を中心とした雑司ヶ谷周辺の町を歩く。護国寺は徳川綱吉の生母である桂昌院の祈願寺として建立された。本堂や月光殿、仁王門が当時の建築物として残っている。〔所要〕2・5時間」。

 

相も變はらず人々でごつた返す池袋驛の西武口に出、漫歩計と時間を確認して歩きはじめました。一〇時四〇分。いつ降りはじめてもおかしくないどんよりした天氣でしたが、思ひのほか足取りはく、南池袋公園に突き當たつたので、さつそくトイレを借りました。尾籠なはなしですが、午前中はトイレが近いので、我が「ガイドブック」の記載にはたいへん助かつてをります。 

その裏が、日蓮宗の本立寺といふお寺と隣接し、その本堂左手前には、大きな「神木隊戊辰戦死之碑」がありました(註)。 

 

注・・神木隊は、戊辰戦争の際、幕府の恩に報いるためとして、越後高田藩の江戸藩邸の抗戦派藩士、86名が脱藩して結成した。高田藩主、榊原家の「榊」の字を分けて「神木」隊という隊の名前にしたという。結成された神木隊は、彰義隊に合流し上野戦争に参加、奮戦するも新政府軍との戦いに敗れた。その後、榎本武揚らと合流、五稜郭落城まで、旧幕府軍と行動をともにした。 

なほ、本立寺は、元和4年(1618)の創建で、榊原家の正室の菩提寺であるといふ。 

 

本立寺をあとに、南池袋二丁目の街並みをジグザグと進むと、都電荒川線に突き當り、踏切を渡るとその前が雑司ヶ谷霊園でした。(つづく) 

 

今日の寫眞・・本立寺の「神木隊戊辰戦死之碑」と、雑司ヶ谷霊園の入り口。