六月廿三日(土)丙戌(舊五月十日) 曇天のち雨

 

『枕草子』 が、讀んでゐてよくわかるやうになりました。とくに日記的章段については、その章段についての「推定事件年時」が脚注されてゐて、『枕草子のたくらみ』 によつて全體の流れが年表として理解できてゐるので、一段一段がすんなり樂しめます。

では、他の章段はあまり役立たないかといふと、『源氏物語』 を(途中まで)讀み進んでゐるぼくとしては、當時の女房たちの生活が垣間見えて、けしてむだではありません。むしろ、『源氏物語』 では書ききれてゐないであらう後宮の樣子や女房たちの關心事などがとても細かく描かれてゐて、きつと役立つと思ひます。 

さうだ、角川文庫舊版の章段番号ですが、五〇段に、「猫は、背中全体が黒くて、腹の真白なのが、よい」 とありました。まさにそのとおり。我がココがまさに背黒腹白でありまする。  

 

《東京散歩》〈コース番號25〉つづき 

ガイドブックによれば、この先、雑司ヶ谷靈園はほんのわずかにかすめただけで、わきの道を通り過ごして行くのですが、今後再びやつて來れるかどうかわかりません。時間をとるのをいとわずに入つて行きました。かと言つて、お墓參りする氣持ちはなかつたのですが、最初に、それも偶然に、永井荷風の墓地を發見してしまつたところから、墓地探訪ははじまりました。しかし、このときはまだ、再びコースにもどることを考へてゐたので、通り沿ひをなでるだけでした。

 

そして、管理事務所で休憩し、出發しようとしたら、とても香ばしいにほひがただよつてくるではないですか。それはうなぎを焼いてゐるにほひで、誘はれるままに近づいて行きましたら、そこに、「うなぎ 江戸一」といふ看板。ちやうど一二時で、業開始の時間でした。ただ、うな重を注文してから待ちに待ちました。およそ五〇分。でも、熱くてふわふわで香ばしく、味もぼく好みで、いやあ、ガイドブックに從つてゐたらと思ふとぞつとしました。

 

それで元氣をとりもどし、ぢやあ、有名人どころをみな訪ねてやれと決心し、いただいた二種類の靈園案内圖を見い見い歩き出しました。訪ねた順に列擧します。うなぎをいただく前からのもふくめてすべてです。 

(享楽に生きた反骨)永井荷風、(日本びいきのコスモポリタン)小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)、(誠実に愛し、尽くした)泉鏡花、(開明派の「最後の幕臣」)小栗忠順(上野介)、(思想家)綱島梁川、(幕末の外交家)岩瀬忠震、(小説家)武林無想庵、(自由学園を創立した)羽仁もと子と夫の羽仁吉一、娘の恵子に涼子に親戚(?)の(歴史家)羽仁五郎、つづいて、(社会運動家)安部磯雄、(女医第一号で、自由学園の校医でもあつた)荻野吟子、(あふれる詩の才能)サトウハチロー、(歌舞伎役者三代目)市川左団次、(東洋史学者)白鳥庫吉、(神学者)柏井園、(画家)竹久夢二、そして、(文学者)夏目漱石に、(哲学者)ケーベル、(文学者・評論家)大町桂月、(歌人)窪田空穂。以上十九基の墓參りでした。 

その他に、島村抱月やジョン万次郎、安藤鶴夫に村山槐多、岩野泡鳴などなどのお墓がありますけれど、遠いので省きました。

 

靈園管理事務所と「うなぎ 江戸一」さんの前を通り過ぎ、都電の線路を越えて、池袋驛方面にもどる路地をたどりますと、東京音樂大學があり、さらにコース名の「寺町散歩」にふさわしく、お寺が密集する木立で薄暗い場所にでました。 

正面には莊嚴な法明寺。向かつて左にはその墓地でありませうか、「法明寺の名墓」と書かれた案内板に、なんと、「楠正成公息女之墓」とあるではありませんか。「十二代将軍徳川家慶に仕えた江戸城大奥の老女華嶋の墓のそば」にあるといふので探したらすぐ見つかりました。巨大な老女華嶋の「基台と門扉がある墓」のそばに、小さな小さな墓石が草に埋もれるやうにしてありました。「天保九年(一八三八年)二月に建立されたものである」とありました。お花が供へられてゐましたから、關係者かゆかりあるひとが手向けたのでありませう「姫塚」とも呼ばれてゐるやうです。(つづく)

 

今日の寫眞・・羽仁もと子・羽仁五郎と、窪田空穂の墓。法明寺山門と老女華嶋の墓のそばにある小さな「楠正成公息女之墓」。はたして、ほんとうに南北朝時代の正成の娘の墓なんでせうか?