正月十八日(月)己亥(舊十二月九日 雪のち雨のち一時晴

 

朝目を覺ますと雪でした。二年ぶりの雪です。その時にはラムがまだ元氣で、雪の中を喜々として歩き回つたものでした。が、今朝の雪はしばらくしてやみ、といふか雨にかはり、積もつた雪もだいぶ溶けてしまひました。 

しかし氣温が低く、寒くて外に出る氣にもならず、本を讀んで過ごしました。そこに齋藤さんから電話があり、今日の弓道のお稽古は休もうといふことに合意いたしました。おかげで、志水辰夫著『夜去り川』(文春文庫)を讀み終へ、つづいて、小松先生の『仮名文の構文原理[増補版]』を讀みつづけました。以下、我が意を得たりの部分を寫します。

 

 《 『古今和歌集』 の和歌は、基本的に、作者と読者との間の知的なかけひきである。作者は、読者の意表を衝いた表現技巧をさりげなく織りこみ、読者は、頭を使ってそれを解きほぐす。そういうことばのゲームとして和歌は享受されている。当時の歌人たちなら、このようなみせかけの駄作(例へば、冒頭の「としのうちにはるはきにけり」の和歌)を、作者による挑戦として受け止めたであろう。・・・ 

 正岡子規は、作者の思いどおりに誘導され、むざむざ、その陥穽に陥って、ほんとうの解釈に通じる隠された抜道を見いだせないままに──というより、抜道が用意されていることにさえ気づかずに──、この作品を、「実に呆れ返った無趣味の歌に有之候」と片づけ、そのほかの和歌についても同じような読みかたをしたあげく、『古今和歌集』 の作品のすべてを、「くだらぬ歌に有之候」「しゃれにもならぬ歌に候」と決めつけてしまっている。 

 『古今和歌集』 の短歌は、韻律形式において 『万葉集』 の短歌を継承している。しかし、内容的には、それとまったく異なるルールのもとに作られ、そして、読まれるものであったから、『万葉集』 と同一の規範をもって評価すべきではないし、また、評価しうるものでもない。「しゃれにもならぬ歌に候」というのは、そういう点についての認識を欠いた傲慢な暴言である。 》

 

 すでに何度か、正岡子規を批判してきましたが、このやうに理路整然と批判されるのを讀んで、その通り、間違つた判斷ではなかつたなと、改めて思つたしだいでありました。 

 

 今日の讀書・・志水辰夫著『夜去り川』(文春文庫)讀了。小松英雄著『仮名文の構文原理[増補版]』(笠間書院)繼讀。 

 

今日の寫眞・・朝八時頃の雪の樣子。猫の出入りした足跡が殘つてゐます。讀み終はつた志水辰夫著『夜去り川』と、先日から少しづつ讀んでゐる、夏目房之介著『古典教養そこつ講座』(文春文庫)。それと、今日屆いた、平將門に關する資料。

 


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