十一月廿一日(火)壬子(舊十月四日 晴、寒い

 

今日の讀書・・久しぶりに、立石圖書館まで歩いて行つてきました。もちろん健康のためと勉強をするためで、午前中三時間、『日本紀略』 を讀み進みました。殘念ですが、重たいのと嵩張るので 『大日本史料』 はおいていき、代りに、文庫本の 『御堂關白記』 と 『權記』 を持參いたしました。

 

そろそろかなと思つてゐましたが、寛弘八年(一〇一一年)六月廿二日、一條天皇がたうとう崩御されました。三十二歳の若さでした。

 

「廿二日 午刻。太上皇、一條院中殿ニ崩ズ。春秋三十二」

 

「一條院」とは里内裏の一條邸。「太上皇」は、『御堂關白記』 と 『權記』 では、「(故)一條院」と記されてゐて、實はこのとき、一條天皇は數日前に譲位し、しかも出家してゐたのでかう呼ばれてゐます。『大日本史料』 では、「一條法皇、崩御アラセラレル」とあります。

 

「七月八日 今日、先皇(一條天皇)ヲ北山長坂野ニ葬リ奉ル。左大臣道長以下參集。(大藏卿・藤原)正光卿御骨ヲ持チ、圓城寺ニ暫奉安置ス」

 

この文面では、葬つたことと、遺骨を安置することとの關係がよくわかりませんが、火葬後、遺骨を假に圓城寺に安置したといふことまでは理解できました。 

ところが、先日訪ねた時もおや?と思つたのですが、一條天皇の陵には、「一條天皇圓融寺北陵」と書かれてあつたのです。つまり、同じ日の朝に訪ねた一條の父親の圓融天皇の陵の北の場所といふことです。そこに「埋納」したからこそ、さう名づけられたわけです。

 

ここで問題なのですけれど、他のどの天皇の陵もほぼ同じなのですが、みな「不明」になつてゐたのです。それを今日のやうに定めたのは、明治維新のどさくさの中で、新政府が實にかつてに決めてしまつたのです。 

『歴史紀行 二 古代天皇陵編』(二〇〇九年十二月卅日) でこのことはくりかへしましたので、さはりだけ・・。 

神武天皇陵について述べたときに、「明治維新を通じて、内外に、『大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス』(大日本帝國憲法)として、曖昧だつた諸陵墓を、一氣に確定させ、莫大な費用を投じて 陵墓整備に取り掛かつたのです。つまり、陵墓は利用されたわけです。」 

一條天皇の陵も、「のち、不明となったが、幕末に現陵に決定した」(註)と言ひます。さう、花山天皇陵などもつとでたらめです。

 

先月、十月二十六日に、円融、村上、一條、後朱雀、後冷泉、後三條、そして、三條、花山と陵墓を訪ね歩いてきましたが、円融、村上はいいとして、後朱雀、後冷泉、後三條の三陵は、場所が同じで、「龍安寺内」とあるのに、みな呼び名が異なるのです。宮内庁書陵部が出した、『陵墓要覧』 によれば、それぞれ、「圓乘寺陵」、「圓敎寺陵」、「圓宗寺陵」です。同じ寺院の中の堂ごとの名なのかも知れませんが、不明だつたものが、のちのち、明治維新の際、確定されてしまつたと言つて間違ひではないでせう。 

花山天皇陵の場合は、「紙屋川上陵(かみやがわのほとりのみささぎ)」との名はありますが、場所はまつたく不明でした。それが、『日本紀略』 の記事の中に、「寛弘五年(一〇〇八年)二月十七日 今夜、花山法皇ヲ紙屋川上ノ法音寺北ニ葬リ奉ル」と、「法音寺ノ北」とあるからとして、どうにか法音寺跡らしきところを探しだして、そのあとでその北側に陵墓を定めたといふのが眞相です。 

そんな嘘つぱちの陵墓をなぜ訪ねるのかと言はれても困るのですが、歴史のかくれた眞實を探るために拂はなければならない貴重な犠牲なのであります。 

 

註・・米田雄介編 『歴代天皇・年号事典』 (吉川弘文館) 神武天皇から昭和天皇まで、すべての天皇を網羅し、略歴、事跡、重要な歴史的事項を詳細に・平易に解説した読む事典。没後に天皇号を贈られた追尊天皇、皇位につかず太上天皇号を贈られた不即位太上天皇まで収め、各天皇の治世中に制定された年号や、埋葬された陵も収録。巻末に天皇一覧・皇室系譜・年号対照表・索引を付載。

 

今日の寫眞・・龍安寺裏朱山の一條天皇陵。たしかに、「一條天皇圓融寺北陵」とあります。 

それと、圖書館の歸りに立ち寄つた古本屋で見つけた珍本。ぼくの力で讀めるくづし字原文がのつてゐるので思はず買つてしまひました。