十二月十一日(火)舊十一月三日(乙亥) 曇天のち雨、

 

まあ、毎日あれこれ手をかへ品をかへての讀書の旅ですが、今日は今月二日に讀了した、眞澄遊覽記第一册目の 『伊那の中路』 につづいて、二册目の 『わかこゝろ』 を讀みはじめました。といつても、寢しな起きしなに、ちよぼちよぼと讀み出してはゐたんですが・・・。

 

内容は、「更級や姨捨山の月みてん」と、「おもふどち(心のあった仲間)」との、姨捨山紀行ですので、地圖を傍らに、地名が出てくるたびに確認しつつ讀み進みました。 

本洗馬を出發したあと、松本からは、北國街道の旅でたどつたことのあるあたりを北に向かひつつ、岡田宿、苅谷原峠、會田宿で泊まり、太刀峠(立峠)、この辺は地圖にない地名のところを過ぎつつ、靑柳宿にまゐります。 

 

「靑柳といふ宿につきぬ、あまたの家居軒をつらねて、とみうどそ多かりける 

〈風にちる例(ためし)もしらて靑柳の里の榮えハ春ならすしも〉 

いはほきりわけて名をきりとをしとて、ひとを通しぬ」 

 

とありまして、裕福な家が多かつたかどうかはわかりませんが、この「切通し」はぼくも訪ねました。天正八年(一五八〇年)にきりわけられたのでせう、標柱にはさうありました。すると本能寺の變の二年前といふことになります。

 

ここまで讀んできて氣づいたことは、和歌がたくさん詠はれてゐることです。蟲が野原で鳴いてゐれば詠ひ、關を超えようとしては詠ひ、霧が深くて旅人の聲しか聞こえないなと言つては詠ひ、みだればしを渡れば詠ひしつつのんびりと歩んでいく光景が眼前にひろがります。 

ところが、すでに何度も書いてゐますが、内田武志・宮本常一編譯 『菅江眞澄遊覧記1』(平凡社 東洋文庫) では、『わかこゝろ』 は仲間と誘ひあつた吟詠の旅であることを考慮してでせうか、前半では和歌の省略を抑へてありますけれども、二日目あたりからはごそりと省かれてしまひ、これでは眞澄さんも浮かばれないであらうと思はざるを得ません。

 

例へば、みだればしで詠つた歌などは、『古今和歌集』 なみに、「みだればし」といふ文字を三十一文字の中に秘かにまぎれこませるといふ技巧を凝らしてゐるんですが、その歌が端折られてしまつてゐるんです。先に引用した靑柳宿の和歌も省かれてゐます。くやしいぢやあありませんか。 

詠はれた和歌を取り去つてしまつたといふのはまさに暴挙といふしかありませんが、でも編集者のなかに、和歌に關心がある方がゐないわけではなからうにと思ひますがね。それでも民俗學的アプローチ優先といふ柳田學への忖度が優先されたのでありませうか。 

これは變體假名の原文を讀んでゐてこその發見ですから、くづし字を學ぶ効用は計り知れませんね。 

 

それと、名前こそ出してはゐませんが、眞澄の約百年前に同じ場所を歩いた、芭蕉の 『更科紀行』 の旅を意識して書いたのではなからうかと思ひました。ちなみに、『更科紀行』 の冒頭は次のやうになつてゐます。

 

「さらしなの里、おはすて山の月みん事、しきりにすゝむる秋風の心に吹さはきて、ともに風雲の情をくるはすもの又ひとり、越人と云、木曾路は山深く道さかしく、旅寢の力も心もとなしと・・・」 

 

註・・・『更科紀行』 芭蕉の書いた俳諧紀行文。元祿元年~二年(一六八八‐八九)成立。宝永六年(一七〇九年) 『笈の小文』 の付録として刊行。『笈の小文』 の旅の続きで、元祿元年、名古屋から木曾路を経て更科の姨捨山の月をめで、善光寺に参詣し、碓氷峠を経て江戸に帰った旅の、旅立ちの動機から途中の情景、経験、感想などを記した短編。

 

註・・・善光寺街道のルート <中山道>(洗馬)(郷原)(村井)(松本)(岡田)[刈谷原峠](刈谷原)(会田)[立峠](乱橋)[中ノ峠](西条)(青柳)(麻績)[猿ヶ馬場峠](稲荷山)(篠ノ井追分){1 丹波島→善光寺 2 (矢代の渡し)<北国街道>(矢代)} 

 

今日の寫眞・・・洗馬宿にて、中仙道と北國西脇往還(善光寺道)とのわかされ、と、靑柳宿の「大切通し」