十二月廿七日(木)舊十一月廿一日(癸巳) 

 

今日は忘年會でした。といつても、大學の友人といふか人生の先輩である服部さんとマキさんと一緒に食事をしただけでしたが、樂しいひと時を過ごすことができました。樂しいといふのは、いつも思つてゐる本音を語り合ふことができるからです。 

服部さんは八十歳、マキさんは七十六歳、そしてぼくが七十一歳と、五歳ほど年をへだてた兄弟みたいに長年、いや、まる半世紀つきあつてきました。まあ、たまに會つて食事をすることくらゐしかできませんが、だから長つづきしてゐるのかも知れません。 

會食は、上野驛前の牛たんのねぎし。みなで、「しろたんセット」をいただきました。 

次回は暖かくなつてきたころ、同じく上野で待ち合せることにしました。 

 

歸路、堀切驛前の靑木書店に立ち寄りました。じつに久しぶりです。が、またご主人とお喋りをしただけで失禮しました。

 

歸宅したら、一昨日五十嵐書店に注文した、『尾州家河内本 源氏物語』(日本古典文学会) が届いてゐました。全十册、みな小口の上半分が日焼けしてゐましたが、それで安かつたのだらうと合點。まあいいことにします。 

「源氏物語をよむ」 の講義までに二週間、それまでに〈夕顔〉まで讀めるかしら。靑表紙本より意味が通りやすい本文のやうですから、やつてみる價値はあるでせう。 

 

ところで、『保元記 上』 のつづきですが、美福門院のところに遺された、故院(鳥羽院)の御遺誡には、多勢の武士を從へてゐた平淸盛の名前がありませんでした。 

そのわけは、淸盛の父親・忠盛が、敵側の「新院(崇徳院)の一宮重仁親王を養君(やうくん)」としてゐたために、淸盛は親王の傅子(めのとご)にあたり、その淸盛を手勢に加へることはいかにもさしさわりがあつたのでありませう。いや、無理をすれば、かへつて敵方に引き抜かれてしまふ恐れもあつたのでせうか。御遺誡に加へませんでした。 

ところが、美福門院は、近衛天皇の母であり、反崇徳・重仁親王派でしたからでせう、淸盛に「御使をつかはして、故院の御遺言也、内裏(後白河天皇側)へ參へし」として、あたかも淸盛の名が、御遺誡にあつたかのやうに「謀(はかりごと)をもて」召してゐるのであります。 

それで、淸盛は後白河天皇側について手柄をたて、勢力をぐぐつとのばしていくことができたのであります。が、もしこのとき美福門院の謀がなかつたならば、その後の歴史どのやうに展開したでありませうか。いやあ、歴史は面白い!